中森明菜さんの「少女A」歌唱ストーリー。涙を流した猛反発から堂々と歌い切るまでの軌跡
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濱口英樹
一触即発から生まれた『少女A』
その「スローモーション」がヒットチャートの30位まで上昇した頃にリリースされたのが2ndシングルの「少女A」(1982年7月)でした。まだ無名だった売野雅勇さん(作詞)と芹澤廣明さん(作曲)による楽曲ですが、実は別個に存在していた2つの作品を1つにしたもの。もともと売野さんの詞には別の作曲家のメロディが、芹澤さんのメロディには別の作詞家の詞がついていたのですが、両者のよさに目を付けた島田氏の判断で、売野さんの詞と芹澤さんのメロディが“合体”したのです。
通常なら大幅な修正が発生するところ、このときは数箇所の手直しだけでピタリとはまったというから奇跡的というしかありません。新聞の社会面記事を思わせる「少女A」というタイトルとツッパリ調の詞、ギターアレンジの名手・萩田光雄さんの編曲によるロックサウンドは、デビュー曲とは違った意味でアイドル離れしていましたが、当の明菜さんは歌うことに拒否反応を示します。当時の彼女は「スローモーション」のような清純路線の楽曲を好んでいたので、その対極ともいえるツッパリソングには抵抗があったのでしょう。
「この曲が売れなかったら、責任を取って担当を離れる」。
そう説得してレコーディングに漕ぎつけた島田氏は一計を案じます。渋々歌い始めた彼女をあえて挑発して怒りのエネルギーを爆発させたのです。その狙いは見事に的中し、明菜さんはハードなサウンドに負けない、メリハリの効いたボーカルで歌唱。早熟な少女の内面を吐露した「少女A」は世相を反映した歌としても注目され、発売から2カ月後にトップ10入りを果たします。
同曲は売野さんと芹澤さんにとっても初ヒットとなり、2人は翌年以降、チェッカーズの作品でも名コンビぶりを発揮。以後、数多くのヒットを放ちますが、そのきっかけとなったのが明菜プロジェクトだったのです。