瞳みのるさんが忘れられない「食」。「ザ・タイガース最後の晩餐は有楽町のちゃんこ屋。内田裕也さんが開いてくれた食事会でした」
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藤岡眞澄
ザ・タイガースのメンバーとして大人気を博した瞳みのるさんは、「食べること」をとても大切にしていらっしゃいます。第1回のインタビューでは、京都時代の食について話していただきました。第2回は、ザ・ファニーズ~ザ・タイガース時代の食について。ザ・タイガースのメンバーは全員、うなぎ寿司が大好きだったそうです。
明月荘の近くにあった寿司屋のうなぎ寿司
のちにザ・タイガースになる5人でザ・ファニーズを結成したぼくたちは、大阪・道頓堀のライブハウス「ナンバ一番」のオーディションに合格します。最初は月に2日ほどだったレギュラーが、人気が出るにつれて月単位の仕事をもらえるようになり、大阪・西成区岸里の3畳1間のアパート「明月荘」を借りて合宿生活のようなことを始めました。
はじめてもらった給料で食べに行ったのが、「ナンバ一番」のすぐ裏、戎橋筋にあった「いづもや」のうな丼。1966年当時の値段は、一徳の記憶によると、並150円、まん中200円、特上250円。当然、ぼくらは並を注文します。
蓋つきの丼が運ばれてきて、ワクワクしながら蓋をあけた瞬間、目に入ったのは、うなぎのたれがかかった白飯。メンバー全員が唖然としました。が、ごはんの下にうなぎの蒲焼が隠れているんです。真ん中を頼めばうなぎは白飯の上に、特上ならうなぎは2段構えに。大阪独特の、お値段なり、ということがわかりやすい食べ方なのかもしれません。
仕事終わりの深夜に腹をすかせて通ったのが、明月荘近くにあった「鮓司万」という寿司屋のうなぎ寿司。店はたたんでしまいましたが、おやじさんが炙ったうなぎを削ぎ切りにして、シャリにのせて握ってくれました。関西ではうなぎではなくあなご寿司がポピュラー。しかも箱寿司(押し寿司)が有名ですが、メンバー全員、この握りのうなぎ寿司が好きでした。東京に出てから、あのとき食べたようなうなぎ寿司を見たことはありません。
当時のぼくらが食事をしながら話していたことといったら、「ザ・スパイダースみたいになってやる」「ルックスだったらうちのほうが勝ってる」「絶対に東京に行って日本で一番になろう」……。夢ばかりを語る、まさに青春そのものでした。大阪生活わずか8カ月であわただしく東京に行くことが決まり、ザ・タイガースとバンド名をあらため、『僕のマリー』、でデビューしたのは、1967年2月5日のことでした。