【どうする家康】家康は今川をどう攻めたか。苦悩する氏真(溝端淳平)と糸(志田未来)の舞台裏
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鷹橋 忍
戦国大名今川家の滅亡
懸川城に入った氏真は、ドラマでも描かれたように家康に攻撃されました。
家康の攻撃は翌永禄12年(1569)正月から本格的に開始されましたが、懸川城には北条家から援軍が送られてきており、家康もなかなか攻略することはできませんでした。
そこで家康は、北条家とも連携して、和睦を模索したとみられています(本多隆成『徳川家康の決断』)。
氏真も和睦を承諾しました。氏真は懸川城を明け渡し、北条家の庇護を受けることになり、同年5月15日、氏真らは懸川城をあとにしました。
こうして、戦国大名としての今川家は滅亡したのです。
北条家に身を寄せる
懸川城を出た氏真と早川殿は、5月17日、船で北条方の蒲原城(静岡市清水区)に入り、早川殿の兄・北条氏政に引き取られました。
5月23日、氏真は北条氏政の嫡子である国王丸(のちの北条家五代当主・氏直)を養子とし、氏政が国王丸の後見として、駿河支配を管轄することになりました。
その後、大平城(静岡県沼津市)に移り、氏真はしばらくの間、在城します。
早川殿の呼び名の由来は?
一方、早川殿は、翌元亀元年(1570)4月には、相模国の早川郷(神奈川県小田原市)に居住したようです。
「早川殿」の呼び名は、この「早川」が由来とみられています。
氏真も同年8月までに、武田軍の侵攻により太平城を出て、早川の地に移り住みました。
この年、氏真と早川殿の間には、嫡子の今川範以が誕生しています(以上、黒田基樹『北条氏康の妻 瑞渓院』)。
北条家の庇護のもと、氏真と早川殿はそれなりに幸せに暮らしていたのかもしれませんが、やがて相模国を出ていきます。
そして、家康と関わりをもつのですが、私たち視聴者は、また氏真と早川殿に会えるのでしょうか。