大河ドラマ「光る君へ」紫式部(吉高由里子)はどのように藤原道長(柄本佑)と出会い、『源氏物語』を綴っていくのか
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鷹橋 忍
2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」の放送が終了しました。戦国武将や城、水軍などに詳しい作家 鷹橋 忍さんに、知られざる徳川家康の姿や時代背景などについてひも解いていただいてきました。連載最終回は、2024年のNHK大河ドラマ「光る君へ」の背景について触れていただきましょう。
★前回はこちら★
【どうする家康】その後、千姫が再婚した相手は?秀頼の祟りというのは本当か
NHK大河ドラマ『どうする家康』も終了し、この連載も最終回となります。
最後は、2024年1月7日(日)より放送が開始される、大河ドラマ『光る君へ』の主人公・吉高由里子さん演じる紫式部(まひろ)と、のちに最高権力者となる柄本佑さん演じる藤原道長や、ドラマの背景について、簡単にご紹介したいと思います。
藤原北家とは
紫式部の父母も、藤原道長も藤原北家の一門です。
藤原北家とは何なのでしょうか。
藤原氏は、大化元年(645)の「乙巳の変」での、蘇我本宗家打倒の功績でも知られる中臣鎌足が、天智天皇(中大兄皇子)から「藤原朝臣」の氏姓を授かったことに始まります。
奈良時代、鎌足の子・藤原不比等の4人の息子が、それぞれ「南家」、「北家」、「式家」、「京家」の四つの家を興しました。これを「藤原四家」といいます。
北家は、不比等の二男・藤原房前(ふささき)を祖とする家で、その名称は邸宅の位置に由来します。
北家は平安時代以降、栄えました。
北家の藤原良房が人臣として初の摂政(天皇が幼少、病気などの場合、代行して政務を行なう役職)に、良房の養子の藤原基経が初代関白(成人後の天皇を補佐する役職)となり、摂関政治の礎を築いています。
摂関政治とは、藤原氏が自分の娘を天皇の后妃に入れ、生まれた皇子を天皇に即位させ、天皇の外戚(母方の祖父)として摂政・関白となり、政権を掌握した政治体制のことです。
摂関政治は藤原道長のときに、最盛期を迎えます。
紫式部の本名も生年も不明
次に、紫式部について、ご紹介しましょう。
「紫式部」は後世の通称ですが、混乱を避けるため、ここでは紫式部と表記します。
紫式部の正式な呼称は、「藤原為時の女」といいます(倉本一宏『紫式部と藤原道長』)。
藤原為時とは、岸谷五朗さんが演じる紫式部の父親です。
本名は、「藤原香子」と推定する説もありますが(角田文衞『紫式部伝——その生涯と『源氏物語』——』)、確かなことはわかっていません。
生年は、天禄元年(970)、天延元年(973)年、天元元年(978)など諸説があり、こちらも確定できていません。
母親を幼くして失う
ですが、為時の家系は藤原良房の異母弟・藤原良門の系統で、中下級貴族だったといいます。
為時は、文章生(もんじょうしょう)出身の学者でした。
文章生とは、当時の唯一の大学である大学寮で紀伝道(中国の歴史・文学)を学び、難しい試験に受かった者です。
母親は、藤原為信の女(ドラマでは、国仲涼子さんが演じる「ちやは」)で、本名はわかっていません。彼女も、藤原北家の出身です。
紫式部の母と為時との間には、紫式部以外にも、紫式部の姉と、弟(兄とも)の惟規(のぶのり)の一男二女が誕生しています。
ところが、紫式部の母親は、紫式部がまだ幼い頃に亡くなってしまします。
その後、父・為時は再婚し、後妻との間に三人の子をもうけました。
紫式部たちは後妻と同居せず、為時が後妻のもとに通っていたようです(倉本一宏『紫式部と藤原道長』)。