【どうする家康】その後、千姫が再婚した相手は?秀頼の祟りというのは本当か
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鷹橋 忍
秀頼の祟り?
幸千代の夭逝や、千姫の流産の原因を占ったところ、亡夫・豊臣秀頼の怨念のせいという結果が出たといいます。
千姫は秀頼の怨念を鎮めるため、伊勢慶光院の尼上人・周清尼に、秀頼の供養を依頼しました。
しかし、その後も子には恵まれず、夫・忠刻も、寛永3年(1626)に31歳で亡くなってしまいます。
これも秀頼の祟りだったのでしょうか。
三代将軍の姉として
忠刻が死去したとき、千姫はまだ30歳でした。
千姫は娘の勝姫とともに江戸に戻り、同年(寛永3年)12月6日に落飾して「天樹院」と号しました。
その後、いくつか縁談が画策されたものの、千姫が再嫁することはありませんでした。
千姫の弟の三代将軍・徳川家光は、千姫を厚遇したといわれます。
家光に二男・長松(のちの甲府藩主・徳川綱重)が誕生すると、養育にあたるなど、千姫は三代将軍の姉として重要な役割を担い、寛文6年(1666)2月6日に、70歳でこの世を去りました。
秀頼には、千姫以外の女性が産んだ子がいた
最後に、千姫の最初の夫・豊臣秀頼の子について、お話しましょう。
千姫と秀頼の間に、子は誕生しませんでした。
ですが、秀頼には千姫以外の女性が産んだ男子と女子が、それぞれ一人ずついたのです。
男子の名は「国松」といい、大坂城落城のとき8歳でした。
国松は落城前に大坂城から脱出しましたが、徳川勢に捕らえられ、秀頼と茶々の自害から間もない5月23日に、京都六条河原にて、処刑されたといいます。
一方、女子は大坂城落城のとき、7歳でした。この女子は千姫の強い願いにより助命され、千姫の養女となりました。
女子は東慶寺(神奈川県鎌倉市)に入寺し、のちに、「二十世 天秀尼(天秀法泰尼)」となっています。
天秀尼は東慶寺で秀頼や豊臣の人々の菩提を弔い、千姫は天秀尼を援助しました。
二人の交流は、天秀尼が正保2年(1645)に37歳で亡くなるまで、続いたといいます。
実の子でなくとも、秀頼の忘れ形見は、愛しかったのかもしれません。