【ヴェルサイユ宮殿】での運命の出会い。マリー・アントワネットと相思相愛だったフェルセンが肌身離さず身に付けていたものは?
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鷹橋 忍
ヴェルサイユ宮殿での運命の出会い
諸説ありますが、マリー・アントワネットとフェルセンが最初に出会ったのは、ヴェルサイユ宮殿だったといいます。
父フレデリックの命によりヨーロッパ各地を遊学していたフェルセンは、1773年11月、18歳のときにパリを訪れ、スウェーデン大使クロイツの邸宅に逗留しました。
翌1774年1月1日、クロイツ大使はフェルセンをヴェルサイユ宮殿に参上させ、当時の国王ルイ15世や、まだ王太子妃であったマリー・アントワネットを紹介したといいます(以上、エマニュエル・ド・ヴァリクール著 ダコスタ吉村花子翻訳『マリー・アントワネットと5人の男 宮廷の裏側の権力闘争と王妃のお気に入りたち』)。
フェルセンは長身で均整のとれた体躯をしており、目が大きく鼻筋が通り、冷たく感じるほど整った容姿の持ち主でした。
おまけにスポーツ万能で、知識や社交術も遊学で磨きがかかっており、多くの貴婦人たちの胸をときめかしてきましたが、マリー・アントワネットも、その一人でした。
マリー・アントワネットとフェルセンは相思相愛であったのは確かなようですが、愛人関係にあったか否かは確定できないといいます(安達正勝『マリー・アントワネット』)。
ですが、当時の貴族たちは、二人は愛人関係にあると公然と噂しており、1785年3月にマリー・アントワネットが出産した次男ルイ・シャルルの父親は、「ルイ16世でなく、フェルセンではないか」とさえ、囁かれていました。
フランス革命勃発
1789年7月14日、バスチーユ要塞が陥落し、フランス革命が勃発。10月には国王一家はヴェルサイユ宮殿を追われ、パリに移されました。
親しかった人たちも次々と離れていくなか、フェルセンはマリー・アントワネットを支え続けます。
有名な「ヴェレンヌ逃亡事件」をはじめ、マリー・アントワネットの救出に奔走するも、いずれも実を結ばず、1793年10月16日、マリー・アントワネットは処刑されてしまいました。
フェルセンはその悲報を、ベルギーのブリュッセルで知ったといいます(川島ルミ子『マリー・アントワネットとフェルセン、真実の恋』)。
失意のフェルセンはスウェーデンに帰国しますが、1810年6月20日、スウェーデンの王太子暗殺の疑いをかけられ、民衆から虐殺されてしまいました。
凄惨な遺体となったフェルセンの胸には、AとF、マリー・アントワネットとフェルセンのイニシャルが刻まれた時計がありました。
その時計は、マリー・アントワネットから贈られたものであり、フェルセンは肌身離さず身に付けていたといいます。
最期の瞬間まで、フェルセンの心は、マリー・アントワネットとともにあったのでしょうか。
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