【虎に翼】のモデル 三淵嘉子さんの後半生をたどる。愛情の深さをうかがうことができる、その選択とは?
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鷹橋 忍
原爆裁判
ドラマでも描かれた「原爆裁判」を、嘉子は東京地方裁判所において、昭和35年(1960)年の第一回口頭弁論から昭和38年(1963)3月の結審 まで、一貫して担当しました。
同年12月に下された判決では、ドラマと同じように主文を後回しにし、判決理由から読み上げはじめました。
そして、被爆者への賠償は認めなかったものの、原爆投下を「国際法違反」と明言し、日本政府に被爆者への支援策を講じるよう、強く促しました。
この判決により、昭和43年(1968)に「原子爆弾被爆者に対する特別措置法」、平成6年(1994)に「被爆者援護法」が制定されたといいます(以上、山我浩『原爆裁判 アメリカの大罪を裁いた三淵嘉子』)。
なお、ドラマの嘉子は、判決文に名を連ねていますが、判決の日、法廷にはいませんでした。同年4月に、東京家庭裁判所へ異動となっていたのです。
転移性骨がんの発症
退官後の嘉子は、第二東京弁護士会に弁護士登録し、労働省男女平等問題専門家会議座長、東京家裁調停委員兼参与員などを歴任。
夫の乾太郎と国内外を旅するなど、活動的に過ごしていましたが、昭和58年(1983)2月頃から背中や肩が凝り、胸の骨が痛むようになりました。
6月には激痛により国立国際医療センターに入院。がん細胞が発見され、転移性骨がんであることが、息子の芳武に告げられます。
当時は、患者本人にガンの告知がなされることはほとんどありませんでしたが、嘉子と「病名は隠さず伝える」と約束していた芳武は、嘉子に病名を知らせました。
嘉子は動ずることなく、治療を受けたといいます。
ですが、病が癒えることはなく、翌昭和59年(1984)5月28日に、69歳でこの世を去りました。
同年6月23日に、東京の青山葬儀所で行われた葬儀と告別式には、2000名以上が参列したといいます。
二人の夫と眠る
翌昭和60年(1985)には、夫の乾太郎も亡くなりました。
嘉子の生前の希望により、彼女の遺骨は乾太郎が眠る霊寿院(神奈川県小田原市)の「三淵氏の墓」と刻まれた墓と、丸亀にある死別した最初の夫・和田芳夫の墓に分骨されました。
どちらの夫も同じくらい深く愛していたのでしょう。
嘉子は、愛する二人の夫と共に、安らかな眠りにつくことができたのです。
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