【べらぼう】蔦重(横浜流星)はどんな最期を迎える? 耕書堂のその後は?
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鷹橋 忍
横浜流星さんが主人公・蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう/蔦重)を演じる、2025年NHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺(つたじゅうえいがのゆめものがたり)〜」。当時の文化や時代背景、登場人物について、戦国武将や城、水軍などに詳しい作家・鷹橋 忍さんが深掘りし、ドラマを見るのがもっと楽しくなるような記事を隔週でお届けします。本連載最終回のテーマは、蔦重の最期とその後の耕書堂についてです。
NHK大河ドラマ『べらぼう』 第46回「曽我祭の変」、第47回「饅頭こわい」が放送され、いよいよ次が最終回となります。蔦屋重三郎はどんな最期を迎えるのでしょうか。今回は蔦重の死と、蔦重亡き後の耕書堂を中心に取り上げたいと思います。
蔦重の死
蔦屋重三郎は寛政8年(1796)秋に、重い病に倒れました。この頃、蔦屋の経営状況が思わしくなく、心労が重なっていたと思われます。そのせいもあってか、病は月を追うごとに悪化し、翌寛政9年(1797)5月6日には危篤状態に陥りました。
蔦重も、死期が近づいているのを悟ったのでしょう。「自分は、今日の午の刻(昼の12時)に死ぬだろう」と予告したといいます。蔦重は、自分の没後の蔦屋についてさまざまな指示を出し、妻にも別れを告げ、最期の瞬間が来るのを待ちました。
ところが、予告した午の刻を迎えても、蔦重の命が尽きることはありませんでした。すると蔦重は、「自分の人生はもう終わったのに、命の幕引きを告げる拍子木(ひょうしぎ)がまだ鳴らない。遅いではないか」と、周囲の人々に笑いかけたといいます。これが蔦重の最期の言葉となりました。
その後、蔦重は静かに目をつむり、その日の夕刻にこの世を去りました。享年48、病は脚気だったとみられています。遺骸は、正法寺(しょうぼうじ/東京都台東区東浅草)に葬られました。
蔦重の妻は、夫の死後、約30年もの長い月日を生き抜き、文政8年(1825)に息を引きとっています。
蔦重亡き後の耕書堂
蔦重亡き後、耕書堂はどうなったのでしょうか。蔦重の没後は、番頭を務めていた勇助(ゆうすけ)が養子に入って店を継ぎ、「二代目・蔦屋重三郎」を称しました(鈴木俊幸『蔦屋重三郎』)。
初代・蔦屋重三郎が亡くなった翌年の寛政10年(1798)、蔦唐丸(蔦屋重三郎)の作品として、黄表紙『賽山伏批狐修怨(にたやまぶしきつねのしかえし)』が出版されました。これは初代・蔦屋重三郎の遺作を装っていますが、津田健次郎さんが演じる曲亭馬琴が著わした『近世物之本江戸作者部類(きんせいもののほんえどさくしゃぶるい)』)によれば、実は馬琴が代作したものでした。おそらく、二代目・蔦屋重三郎が馬琴に依頼したと考えられています。
『賽山伏批狐修怨』は狐に山伏が化かされる話ですが、それほど見所のある作品ではなかったようで(鈴木俊幸『「蔦重版」の世界 江戸庶民は何に熱狂したか』)、二代目・蔦屋重三郎には、初代の路線を延長していく力量は備わっていなかったのではないかと見る意見もあります(鈴木俊幸『蔦屋重三郎』)。二代目・蔦屋重三郎は、天保4年(1834)に亡くなりました。
