【どうする家康】徳川十六将の一人 大久保忠世(小手伸也)は、家康だけでなく信長からも賞賛されていた
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鷹橋 忍
徳川家康というと、どういうイメージをもっていますか? 2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」では、どんな家康が描かれるのでしょうか。戦国武将や城、水軍などに詳しい作家 鷹橋 忍さんに、知られざる徳川家康の姿や時代背景などについてひも解いていただきましょう。
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【どうする家康】本多忠勝の娘 稲(鳴海唯)が、結婚相手に真田信幸を自ら選んだという逸話がドラマチック
大河ドラマ『どうする家康』第37回「さらば三河家臣団」では、小田原合戦と徳川家の関東への国替えが描かれました。
家康と、家康を支え続けた家臣団たちは、それぞれ新しい場所へと旅立って行きました。
今回はその三河家臣団の中から、小田原を任された小手伸也さん演じる大久保忠世を、ご紹介したいと思います。
徳川十六将の一人
大久保忠世は「徳川十六将」の一人に数えられています。
江戸幕府が編修した大名・旗本の大名・旗本の系譜集『寛政重修諸家譜』によれば、天文元年(1532)に、三河国上和田郷(愛知県岡崎市)で生まれました。
天文11年(1542)生まれの家康よりも、10歳年上です。
ドラマでも親しげな、松山ケンイチ演じる本多正信は天文7年(1538)生まれなので、忠世より6歳年下となります。
弟は『三河物語』の著者
大久保一族は、「大久保党」とも呼ばれ、猛将揃いの一族でした。
忠世の父・大久保忠員は、大久保一族の惣領・大久保忠俊の弟です。
『寛政重修諸家譜』では忠世の母親を「公條が女」とし、忠員の妻を「西三條右大臣公條が女」と記していますが、菊地浩之氏はこの記述を疑わしいとしています(菊地浩之『徳川家臣団の系図』)。
忠員には十男二女の子どもがいましたが、忠世は長男です。
次男の大久保忠佐は忠世と同じく徳川十六将の一人に数えられる勇将で、忠員の八男・大久保忠教は、大久保一族の功績を綴った『三河物語』の著者です。
三河一揆で目を射貫かれた?
『寛政重修諸家譜』によれば、忠世は15歳で初陣を果たしたといいます。
弘治元年(1555)の尾張蟹江城攻めには、父・忠員に従って参戦し、活躍しました。
永禄6年(1563)に起きた三河一揆では、ドラマでも描かれたように、家康に背く家臣も少なくありませんでした。
しかし、大久保一族だけは一人も離反する者はいなかったといいます(綱淵謙錠『徳川家臣団 組織を支えたブレーンたち』)。
もちろん忠世も、家康側として戦いました。
忠世は戦功を挙げたといわれますが、無傷ではすまなかったようです。
『三河物語』によれば、一族で傷を負わなかった者はいないほどの激戦で、忠世と大久保忠勝(大久保一族の惣領・大久保忠俊の長男)も、目を射貫かれたといいます。
ですが忠世は、その後の戦いでも武功を重ね、家康から目を掛けられるだけでなく、岡田准一さんが演じた織田信長からも賞賛されたと伝わります。