【どうする家康】豊臣秀頼(作間龍斗)は、家康に「賢き人」と称されていた?
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鷹橋 忍
徳川家康というと、どういうイメージをもっていますか? 2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」では、どんな家康が描かれるのでしょうか。戦国武将や城、水軍などに詳しい作家 鷹橋 忍さんに、知られざる徳川家康の姿や時代背景などについてひも解いていただきましょう。
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大河ドラマ『どうする家康』第46回「大坂の陣」では、北川景子さんが演じる茶々(淀殿)や作間龍斗さん演じる豊臣秀頼ら豊臣勢と、家康ら徳川勢が対決した「大坂冬の陣」が描かれました。
そこで今回は、豊臣秀頼を取り上げたいと思います。
秀吉の第二子
豊臣秀頼は、文禄2年(1593)8月3日、大坂城の二の丸で生まれました。
秀吉の第二子となります。秀吉が数えで57歳、茶々が25歳のときのことです。
拾った子は無事に育つという俗信を受け、幼名を拾(ひろい)と名付けられました(ここでは秀頼で統一)。
秀頼の誕生により、秀吉は後継者構想を考え直すことになります。
そして、それは当時の関白で、豊臣氏(羽柴家)の当主であった、豊臣秀次(秀吉の姉の長男)の運命に影響を及ぼし、やがて、「秀次事件」が勃発します。
秀次事件
秀次事件とは、どんな事件なのでしょうか。
ドラマでも描かれたように、茶々は、秀頼が誕生する4年前の天正17年(1589)5月に、第一子となる鶴丸(幼名 捨)を産んでいます。
しかし、病弱だった鶴丸は、天正19年(1591)8月に、僅か3歳で夭逝してしました。
秀吉は愛児の死を、大変に嘆き悲しんだといいます。
このとき55歳であった秀吉は、自分にはもう実子は望めないと思ったのか、同年12月に、甥の豊臣秀次に関白職と豊臣氏(羽柴家)の家督を譲りました。
実権を握っていたのは秀吉でしたが、秀次が秀吉の後継者と目されていていました。
秀吉の後継者に
ところが、秀吉は秀頼が文禄2年(1593)に誕生すると、同年9月、秀次に「日本を5つに分け、5分の4は秀次に、5分の1を秀頼に譲る」という案を提示し、10月には、秀次の娘と秀頼との婚約を決めました。
これらは、秀次は中継ぎにすぎず、天下は秀頼に譲るという、秀吉の意思表明だといいます(呉座勇一『陰謀の日本中世史』)。
それでも当初は、秀吉と秀次の関係は少なくとも表向きは、悪くありませんでした。
しかし、やがて関係は悪化します。
文禄4年(1595)7月、秀次は謀反の嫌疑をかけられ、高野山へ出奔し、切腹してしまいました。
秀次の妻子たちも、京都三条河原で処刑されています。
これが、いわゆる「秀次事件」です。
この事件の結果、秀吉の後継者は、まだ数えで3歳の秀頼だけとなったのです。