【どうする家康】豊臣秀頼(作間龍斗)は、家康に「賢き人」と称されていた?
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鷹橋 忍
秀吉の死
秀頼は慶長2年(1597)9月に元服し、翌慶長3年(1598)4月には従二位・権中納言に叙任されるなど、秀吉の後継者となる準備を着々と進めていました。
この年には、秀頼と、原菜乃華さんが演じる千姫(家康の孫、森崎ウィンさん演じる徳川秀忠の娘)との婚約も、秀吉により取り決められています。秀頼6歳、千姫2歳のときのことです。
ところが、同年の8月に、秀吉は死去してしまいます。
秀頼はそれまで伏見城にいましたが、慶長4年(1599)正月、秀吉の遺言に従い、大坂城に移りました。
家康に「賢き人」と称される?
慶長5年(1600)9月、関ケ原の合戦が勃発し、慶長8年(1603)2月、家康が征夷大将軍に就任しました。
同年7月、秀吉の遺志に従い、秀頼と千姫が結婚。徳川と豊臣は、縁戚関係で結ばれました。
慶長16年3月、ドラマでも描かれたように、秀頼は家康と山城二条城(京都市中京区)で会見しています。
秀頼19歳、家康70歳のときのことです。
僧にして兵法家の真田増誉が著した逸話・見聞集『明良洪範』(江戸中期成立)には、この二条城での会見後に、家康が井上祐貴さんが演じる本多正純に、「秀頼は賢き人なり」と語ったことが記されています。
会見での秀頼に、賢さを実感させるような振る舞いがあったのでしょうか。
慶長19年(1614)には、「大坂冬の陣」が起きています。
ドラマは「大坂冬の陣」において、大坂城に大砲が撃ち込まれ、千姫や茶々が悲惨な状況に陥ったところで終わりました。
この惨状を受け、秀頼や茶々はどう動くのでしょうか。
豊臣と徳川の最終決戦「大坂夏の陣」が、近づいています。