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【べらぼう】江戸時代に大ブームが巻き起こった「狂歌」とは? 大田南畝(桐谷健太)はどんな人物?

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鷹橋 忍

19歳で時代の寵児となった大田南畝

大田南畝は寛延2年(1749)に、牛込仲御徒町(新宿区中町)で生まれました。寛延3年(1750)生まれの蔦重より、一つ年上となります。父は幕府の御徒(おかち)を務める大田正智。御徒とは将軍の警護を任とする下級幕臣です。母の利世(りよ)は幕臣の娘でした。
 
一家が食べていくのがやっとという低所得層でしたが、宝暦13年(1763)、15歳で前述の内山賀邸の門下に入り、国学や歌学を習いました。明和2年(1765)、17歳で御徒として出仕しています。出仕後も、翌明和3年(1766)には、最初の編著書となる『明詩擢材(みんしてきざい)』を刊行します。

明和4年(1767)に出版された狂詩集『寝惚(ねぼけ)先生文集』は大評判となり、大田南畝は19歳にして時代の寵児にのぼり詰めています。以後も、幕臣としての役割を担いつつ、狂歌や狂詩、洒落本、滑稽本、随筆など、文芸活動も幅広く続けていきました。

蔦重との出会いは?

天明元年(1781)、大田南畝編の黄表紙評判記『菊寿草(きくじゅそう)』が刊行されました。『菊寿草』では、蔦重が出版した『見徳一炊夢(みるがとくいっすいのゆめ)』(作者は、尾美としのりさんが演じる朋誠堂喜三二)が、最上位の「極上上吉」にランク付けされていました。このことを知り、蔦重や喜三二ら一行の大喜びする様子が、第19回最後と第20回冒頭のシーンでした。そして、第20回で描かれていたように、蔦重が南畝のもとに赴き、二人の交流がはじまったとみられています(佐藤至子『蔦屋重三郎の時代 狂歌・戯作・浮世絵の12人』)。

天明3年(1783)には、蔦重のもとで大田南畝編の狂詩集『通詩選笑知(つうしせんしょうち)』が刊行されます。同年に、南畝と同門の朱楽菅江が編集した『万載(まんざい)狂歌集』(版元・須原屋伊八)が出版されます。狂歌は大ブームとなり、南畝の名声もよりいっそう高まりました。

【べらぼう】江戸時代に大ブームが巻き起こった「狂歌」とは? 大田南畝(桐谷健太)はどんな人物?(画像4)

大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」第21回より ©️NHK

南畝と女郎との恋、その後の人生は?

蔦重は作家たちと吉原で遊興することもありましたが、大田南畝はそのメンバーの一員となることが多かったようです。

天明5年(1785)11月、大田南畝は吉原の松葉屋の女郎・三穂崎と出会って恋に落ち、翌天明6年(1786)、彼女を身請けしています。南畝、38歳のことです。三穂崎は「お賤」と名を改め南畝の妾となり、寛政元年(1793)に病没するまで大切にされたようです。

田沼時代が終わり、寛政改革がはじまると、大田南畝は幕臣としての勤務に励むことになります。寛政6年(1794)、南畝は人材登用試験である「学問吟味」を受け、御家人の部において首席の座に就いています。寛政8年(1796)には、御徒から支配勘定へと昇進しました。

寛政13年(1801)には大坂の銅座(銅の管理を行う役所)勤務となります。大坂では「蜀山人(しょくさんじん)」と名乗りました。文化元年(1804)には長崎奉行所勤務を命じられ、任期中、ロシアのレザノフ使節とも会っています。

文化2年(1805)に江戸に戻り、文政6年(1823)4月6日、75歳で亡くなっています。ドラマでは今後、どのように描かれるのでしょうか。

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