記事ランキング マンガ 連載・特集

【べらぼう】田沼意次は松平武元や徳川家基を殺したのか? 平賀源内との関係は?

公開日

更新日

鷹橋 忍

【べらぼう】田沼意次は松平武元や徳川家基を殺したのか? 平賀源内との関係は?

大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」第15回より ©️NHK

横浜流星さんが主人公・蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう/蔦重)を演じる、2025年NHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺(つたじゅうえいがのゆめものがたり)〜」。当時の文化や時代背景、登場人物について、戦国武将や城、水軍などに詳しい作家・鷹橋 忍さんが深掘りし、ドラマを見るのがもっと楽しくなるような記事を隔週でお届けします。今回は、田沼意次とその周辺の人物について取り上げます。

▼こちらもおすすめ▼

>>【べらぼう】吉原の女将たちはなぜ眉がないのか? 江戸時代の化粧法とは?

NHK大河ドラマ『べらぼう』 第15回「死を呼ぶ手袋」と第16回「さらば源内、見立は蓬莱」が放送されました。この2回のストーリー展開の鍵となった人物・田沼意次(おきつぐ)と、亡くなった3人との関わりについて、ここで取り上げます。

異例の大出世を遂げた田沼意次

田沼意次は享保4年(1719)に、紀州藩士から旗本(幕臣)となった田沼意行(おきゆき/『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』では「もとゆき」)の長男として江戸で生まれました。寛延3年(1750)生まれの蔦屋重三郎より31歳も年上です。

田沼意次の父・意行は、宝永元年(1704)に後に八代将軍となる徳川吉宗(よしむね)に召し出されました。享保元年(1716)に吉宗が八代将軍となり江戸城に入ると、意行も江戸に同行し、将軍の身辺に仕え雑用をこなす小姓(こしょう)となりました。以後、田沼家は幕臣で旗本の身分となったといいます(藤田覚『田沼意次 御不審を蒙ること、身に覚えなし』)。

田沼意次も享保19年(1734)3月、16歳のときに、次期将軍に決定している徳川家重(いえしげ/吉宗の長男)の小姓の一人に取り立てられ、家重が暮らす江戸城西丸に入っています。同年12月に父・意行が没すると、翌享保20年(1735)3月、意次は17歳で父の跡を継ぎました(領地は、亡父と同じ六百石)。意次が仕えた家重は、延享2年(1745)11月、九代将軍に就任します。意次は家重に重用され、出世を重ねていきます。

寛延元年(1748)閏10月には二千石の旗本となり、宝暦8年(1758)9月には、遠江国相良藩(静岡県牧之原市)一万石の大名となっています。六千石の旗本から大名というのは、異例の大出世です。田沼意次は40歳になっていました。

宝暦10年(1760)5月、九代将軍・徳川家重は大病により引退し、同年9月、眞島秀和さんが演じる徳川家治(いえはる/家重の嫡男)が十代将軍となりました。田沼意次は家治からも重用され、よりいっそうの出世を遂げていきます。

明和4年(1767)7月、田沼意次は側用人(そばようにん)に昇進しました。側用人の本来の主な職務は、将軍に近侍し、将軍の命令を幕政のトップである老中へ、老中からの上申を将軍へとそれぞれに伝え、両者の間を取り次ぐことです。さらに、明和9年(1772)1月には老中に昇りつめ、側用人としての職務も続けました。幕政を担う老中と、将軍の意思を伝える側用人を事実上兼任することで、意次は絶大な権力を手にしたのです。

田沼時代とは

一般に、田沼意次が側用人の座に就いた明和4年(1767)頃から天明6年(1787)までの約20年間は 、意次が幕政を主導したことにより「田沼時代」と称されます。ある時代を表わす名称に個人の名が冠されるのは、日本史上、大変に珍しいことです。

田沼時代、意次は幕府の財政難を解消するために、下総国(千葉県北部と茨城県南西部)の印旛沼干拓計画、蝦夷地(北海道)の開発計画、長崎貿易の拡大、株仲間の積極的な公認、幕府の専売制の拡張、通貨の一元化など、大規模な開発や金融政策を打ち出しました。

税収は上がり、財政難克服への希望が見え始めましたが、その一方、商人たちが頻繁に賄賂を贈るなど、政治の腐敗は進んでいます。田沼意次といえば、今でも「賄賂政治家」のイメージが強いですが、商人が関連部局の役人に賄賂を贈るのは田沼時代に始まったことではなく、以前から日常的に行なわれていたといいます(以上、安藤優一郎『蔦屋重三郎と田沼時代の謎』)。

大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」第16回より ©️NHK

松平武元(たけちか)との関係は?

石坂浩二さんが演じた松平武元は、江戸幕府が編修した武家系図集『寛政重修諸家譜』によれば、正徳3年(1713)に生まれました(諸説あり)。享保4年(1719)生まれの田沼意次より6歳年上となります。

松平武元は名門出身のうえ、人柄もよく、才能豊かな人物だったといわれ(大石学『徳川将軍事典』、八代将軍・徳川吉宗から、吉宗の長男・家重を末永く補佐するよう託されています。延享2年(1745)11月、吉宗が隠居して大御所となり、家重が九代将軍の座に就くと、翌延享3年(1746)、武元は西丸老中に抜擢され、家重の継嗣・家治の教育係を務めました(大石愼三郎『田沼意次の時代』)。家治は武元を「西の丸の爺」と呼んで、慕ったといいます。

松平武元は、延享4年(1747)に本丸老中の座に就き、徳川家治は、宝暦10年(1760)に十代将軍に就任します。すると、家治は武元に「私は年若く、国家の事に習熟していない。もし、私に過ちがあれば、必ず糺し、戒めよ」と告げたといいます(「浚明院殿御実紀付録(しゅんめいいんでんごじっき)」黒板勝美編『新訂増補 国史大系 第47巻』所収)。家治は心から武元を信頼していたのでしょう。田沼意次も武元には敬意を表し、武元が生きている間は、幕政を我が物にすることはなかったといいます。

松平武元は安永8年(1779)7月25日、老中在職のまま、67歳(数え年)で、この世を去りました。田沼意次による暗殺との噂も流れたようですが、意次が武元を殺害する理由はなく(秦新二 竹之下誠一『田沼意次・意知父子を誰が消し去った? 海外文書から浮かび上がる人物』)、こちらは噂にすぎないようです。

大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」第15回より ©️NHK

幻の十一代将軍・徳川家基(いえもと)

安永8年(1779)、ドラマでも描かれたように、奥智哉さんが演じる徳川家基(十代将軍・徳川家治の長男)が鷹狩りの途中で発病し、18歳の若さで急死しています。

家基が亡くなったことにより、田沼意次の選定で、生田斗真さんが演じる一橋治済(はるさだ)の長男・豊千代(徳川家斉/いえなり)が、徳川家治の跡継ぎとして養子に迎えられました。自分が選定した家斉が十一代将軍となれば、家斉の時代も引き続き権勢を手にできると意次は考えたとみられています(安藤優一郎『田沼意次 汚名を着せられた改革者』)。
 
一橋治済と田沼意次が共謀し、徳川家基を毒殺したともいわれます。江戸中期の俳人・随筆家の神沢杜口(かんざわとこう)著の『翁草(おきなぐさ)』には、大奥女中の間で意次による毒殺説が広まっていることが記されていますが、真相はあきらかではありません。

平賀源内との関係は?

田沼意次と安田顕さんが演じた平賀源内の関係のはじまりは、よくわかっていません。ですが、意次は源内のパトロン的な存在であり、大変に目を掛けていたといいます(城福勇『平賀源内の研究』)。

明和7年(1770)の、平賀源内の二度目となる長崎遊学を援助したのは田沼意次だといわれますし、源内が秩父中津川鉄山に関わったり、秋田藩の鉱山に指導や助言を行なったりしたのも、意次の要請だったと推定されています(以上、藤田覚『田沼意次 御不審を蒙ること、身に覚えなし』)。

ですが、平賀源内が殺人事件を起こすと、田沼意次はすべての関係を否定したといいます(新戸雅章『江戸の科学者』)。源内は安永8年(1779)12月18日、52歳で獄中死しました。意次はどんな思いで訃報を聞いたのでしょうか。

大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」第16回より ©️NHK

▼あわせて読みたい▼

>>瀬川(小芝風花)の身請け、うつせみ(小野花梨)の足抜け…吉原の女郎の境遇とは? >>【べらぼう】蔦重(横浜流星)ら吉原の人々が大盛り上がりの「吉原俄」とは? >>【べらぼう】瀬川を襲名した花の井(小芝風花)。鳥山検校(市原隼人)との出会いで人生がどう変わる?

PICK UP 編集部ピックアップ

画面トップへ移動