【どうする家康】戦国の忍びたちの事情。服部半蔵(山田孝之)の初陣は? 本多正信(松山ケンイチ)はいい人だった?
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鷹橋 忍
徳川家康というと、どういうイメージをもっていますか? 2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」では、どんな家康が描かれるのでしょうか。戦国武将や城、水軍などに詳しい作家 鷹橋 忍さんに、知られざる徳川家康の姿や時代背景などについてひも解いていただきましょう。
大河ドラマ『どうする家康』第5回「瀬名奪還作戦」では、山田孝之さんが演じる服部半蔵(正成)と、松山ケンイチさんが演じる本多正信が初登場し、話題をさらいました。
戦国の忍びの実情が、リアルに描かれた回でもありました。
そこで今回は服部半蔵と、本多正信の前半生を、ネタバレにならない範囲で取り上げたいと思います。
なお、服部半蔵の「半蔵(半三とも)」は通称であり、服部家の代々の当主が使用しています。
ですので、本来なら「服部正成」とすべきですが、服部半蔵の名で知られているので、ここでは半蔵と表記します。
服部半蔵の生まれは、伊賀ではなかった
服部半蔵(正成)は伊賀ではなく、岡崎で生まれた
服部半蔵は、服部半三保長(やすなが 正種とも)の五男として、天文11年(1542)に、三河国岡崎(愛知県岡崎市)で誕生しました。
家康と同じ年齢です。
半蔵の先祖は、代々にわたって伊賀忍者の頭領的な存在であり、伊賀国花垣村(現在の三重県伊賀市)を居としていたと伝わります。
父の服部保長も伊賀者といわれ、足利将軍家に仕官していました。
ですが、衰退する足利将軍家のもとでは未来はないと思い、一族とともに三河国岡崎に移住し、松平清康(徳川家康の祖父)に仕えたといいます。
「伊賀忍者の頭領」のイメージの強い半蔵ですが、生まれも育ちも伊賀ではなく、岡崎なのです。
両親は半蔵を僧侶にしたかった?
半蔵の両親は天文17年(1548)、半蔵が7歳のときに、大樹寺に入れ、彼を僧にしようとしました。両親は半蔵に、忍びの道を歩ませたくなかったのでしょう。
ところがお寺での修行は、半蔵に合わなかったようです。
3年後、10歳のとき、お寺から逃げ出したといいます。
半蔵の初陣は?
半蔵は忍びではなく、「鬼半蔵」と呼ばれ、「徳川十六将」の一人でもある武将ですが、彼は初陣を、伊賀の忍びとともに飾っています。
『寛政重修諸家譜(江戸幕府が編纂した大名・旗本・諸家の系譜集)』によれば、半蔵の初陣は、16歳のときです。
半蔵は60~70人もの伊賀の忍びを率いて、上ノ郷城(愛知県蒲郡市 宇土城とも)を攻めました。
このときの戦功により、家康から七寸八分の持槍を賜ったといいます。
ですが、半蔵が16歳のときというと、弘治3年(1557)であり、当時の上ノ郷城は今川氏の城でした。
今川と松平はこのころ同盟を結んでいたため、このときの半蔵の上ノ郷城攻めを疑問視する声もあります。
ちなみに、『どうする家康』第6回の予告では、半蔵が上ノ郷城へ忍び込むとあります。どのような展開になるのか、楽しみですね。