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吉田秋生の漫画『夢みる頃をすぎても』を久しぶりに読んでみた。歳を重ねて見える景色もまた、味わいがある

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Anmitu

学生のとき夢中になって読んだ漫画は、どんな作品でしょう。時を経て今、久しぶりにその漫画を読んでみたら、どんな感想をもつのでしょう。吉田秋生さんの初期の作品『夢みる頃をすぎても』を、久しぶりに読んだマチュア世代ライターのレポをお届けします。
※ネタバレにご注意ください。

「ガラスの靴」に足が入らないどころか、焦点が合わず見えなくなった、かつての少女たちへ

「少女マンガの異端」と呼ばれる吉田作品は実に多彩で、男性ファンが多いのも特徴だ。硬派なハードボイルドからミステリアス、青春ロマンなど、作品によって作風イメージを変え、かつ物語に応じた緻密なネームで仕立てられている。

私が吉田作品をよく読んでいたのは、1977~85、6年ころ。中学、高校、大学生と歳を重ねながら、メイン購読誌を『少女コミック』→『別冊少女コミック』→『プチフラワー』と変遷をたどるなか吉田作品に出合った。このころは「初期の作品」と呼ばれる物語群で、「大人へと成長していく過程で喪失してしまうもの」をモチーフに、繰り返し描いている。

『夢みる頃をすぎても』もそんな作品のひとつ。

40ページほどの読み切りで、衝撃的なエピソードがあるわけでも、劇的な展開があるわけでもない。ある日、仲良し3人組女子が街をブラブラして過ごす様子を淡々と描いていく。

いる、いる。こんな子。ある、ある。そんなこと。こんな話で意味なく盛り上がるよね……といった普通の日常。当時大学生だった私は、彼女たちに自分を重ねて読んだ記憶がある。

メインの登場人物の3人は、大学3年生。
空子(うつこ)はアッシー、メッシー君を使い分け、乗っている車で男を値踏みするちょっと派手なタイプ。
今日子(きょうこ)は眼鏡をかけていて、どこか俯瞰した物言いをする一見クールなタイプ。
で、二人とも処女。
残りひとりの黄菜子(きなこ)には、恭一(きょういち)という彼がいる。

ナンパされた高校生たちに、歳をさば読みランチをちゃっかりおごらせたり、道行くすれ違う人たちの品定めを話題にしつつブラブラしたりして過ごす。やがてたどり着く場所は居酒屋。黄菜子と空子の中学時代の同窓会会場だった。何も聞かされていなかった今日子は部外者だし、と遠慮するも黄菜子に引きとめられ同席することに。

空子が先日別れた男が実は中学時代の元・同級生の男子で、彼にはすでに新しい彼女がいることを知る。ボロクソに言っていたわりに、ショックを受けた空子はチャンポン飲みをして悪酔いし沈没。そんななか、陽気だった同級生が自殺したことを聞く。

中学を卒業してから6年。「もう、制服じゃないから」それぞれが、それぞれの旅を歩んでいるのだ。

黄菜子は卒業以来、初恋の男子と再会し、さらりと会話を交わす。

「いいの?」「(初恋の彼と)もっと話さなくて」と尋ねる今日子に、「中学時代は(好きな子に)ロクに口もきけなかったのよ」「今では平気で思ったことが言えるのに」と黄菜子は答える。

「若くない」より「若い」時のほうが、何ものにもなれると信じ、何がしたいのか真剣に迷い考えていた。だからこそ、自分はどんな人間なのか、何がしたいのかわからない葛藤や迷いが生じ臆病になる一方で、失敗にとらわれず、恐れず、後先考えず冒険する無謀さと無鉄砲さもある。やがて20代になると、若さゆえの苦悩や屈託は、の一言では終わらないやるせないルールや常識、役割が見え始めて何を信じればいいのかわからず、信じられなくてもはみ出せず、そして繰り返し問うていた。自分らしい自分とは何か……。

『夢みる頃をすぎても』「プチフラワー」(1982年1月号掲載/小学館)。翌年、1983年に『夢みる頃をすぎても〔PF〕 (1) (PFコミックス―吉田秋生傑作集)』(小学館)単行本として発行。1995年に文庫版として初版発行。

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