【どうする家康】小早川秀秋(嘉島陸)の早すぎる死の原因は、お酒の呑み過ぎだったか
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鷹橋 忍
徳川家康というと、どういうイメージをもっていますか? 2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」では、どんな家康が描かれるのでしょうか。戦国武将や城、水軍などに詳しい作家 鷹橋 忍さんに、知られざる徳川家康の姿や時代背景などについてひも解いていただきましょう。
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大河ドラマ『どうする家康』第43回「関ケ原の戦い」は、タイトル通りに関ケ原での合戦が描かれ、家康方(東軍)の勝利に終りました。
嘉島陸さんが演じる小早川秀秋は、これまで優柔不断に描かれることが多かったですが、冷静に戦況を見極め、自らの意志で家康方に加勢した姿が印象的でした。
そこで今回は、小早川秀秋を取り上げたいと思います。
北政所の甥
小早川秀秋は、羽柴(豊臣)の一門です。
秀秋はたびたび名を変えていますが、ここでは秀秋で統一します。
生年は諸説ありますが、江戸幕府が編纂した大名・旗本の系譜集『寛政重修諸家譜』には、天正10年(1582)と記されています。本能寺の変が勃発した年です。
天正10年説が正しければ、天文11年(1542)生まれの家康より、40歳も年下となります。
父親は木下家定といい、和久井映見さんが演じる北政所の実兄です。つまり秀秋は、北政所の甥にあたります。
新井白石『新編藩翰譜 第5巻』などの記述から、秀秋は家定の五男とみられています。
母親は、秀吉に仕えていた杉原家次の娘です。
秀吉の後継者だった?
秀秋は天正13年(1585)閨8月以前に秀吉の養子となり、北政所に養育されたとみられています(光成準冶『ミネルヴァ日本評伝選 小早川隆景・秀秋―消え候わんとて、光増すと申す』)。
天正13年当時、秀吉はすでに、織田信長の四男(五男とも)である於次秀勝という養子がいました。
於次秀勝は秀吉の後継者だったといいますが、同年12月に死去してしまします。
これにより、秀秋は秀吉の唯一の養子となり、秀吉の後継者の地位にあったとみられています(黒田基樹『羽柴を名乗った人々』)。
秀秋は利発な少年で、秀吉と北政所に大変にかわいがられました。
ですが、秀秋はやがて、若い仲間と酒を嗜むようになりました。酒量は増え、日夜のこととなり、心配した北政所に戒められていたといいます(近衛信伊「同じ悼み」山陽新聞社編『ねねと木下家文書』所収)。
順調に昇進
天正16年(1588)、秀秋は7歳で元服し、従五位下・侍従に叙任しています。
翌天正17年(1589)5月に北川景子さんが演じる茶々が鶴松を産み、秀吉の後継者の地位が鶴松へと移りました。
しかし、鶴松は天正19年(1591)5月に、死去してしまいます。数えで僅か3歳でした。
一方、秀秋は丹波国亀山領(京都府亀岡市)を与えられて大名となっており、天正19年10月に、正四位下・参議に叙任されています。