【どうする家康】小早川秀秋(嘉島陸)の早すぎる死の原因は、お酒の呑み過ぎだったか
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鷹橋 忍
小早川家の養子に
文禄2年(1593)8月、秀吉と茶々の間に、拾丸(豊臣秀頼)が誕生しました。
おそらくその影響で、秀秋は小早川隆景の養嗣子となることが、翌文禄3年(1594)7月までに、決められました。
小早川隆景とは、中国地方に覇を唱えた戦国大名・毛利元就の三男です。安芸の国衆である小早川家を継承しました。
関ケ原の戦いの西軍総大将だった吹越満さんが演じる毛利輝元は、隆景の兄・毛利隆元の子なので、隆景は輝元の叔父にあたります。
秀秋は文禄3年11月13日に、隆景の本拠・備後国三原(広島県三原市)に赴き、正式に隆景の養嗣子となりました。11月16日には毛利輝元の養女(長寿院)と祝言を挙げています。秀秋、13歳のときのことです。
21歳の若さで急死
翌文禄4年(1595)、秀秋は小早川の家督を継承し、筑前1国、筑後国2郡、肥前石2郡の33万6000石の大大名となりました。
慶長の役では、初陣でありながら、軍の総大将を務めています。
慶長5年(1600)の関ケ原の戦いでは、家康方の勝利に貢献しました。
秀秋はその功績により、備前・美作二ヶ国40万7000石(石高は諸説あり)に加増され、備前国岡山城(岡山市)に入りましたが、慶長7年(1602)10月、21歳の若さで急死してしまいます。
秀秋の死因に関しては様々な説がありますが、お酒の呑み過ぎで、体調が悪かったといいます(黒田基樹『シリーズ【実像に迫る】005 小早川秀秋』)。
お酒の呑み過ぎが、一因となったのでしょうか。
いずれにせよ、早すぎる死であることには変わりありません。