松島トモ子さん「理不尽なこと、辛いことも視点を変えれば喜びや楽しみが見つかります」
猛獣に襲われても諦めずに仕事を遂行
留学を終えて帰国してからは、その語学力を生かして英語での司会やインタビュー、海外レポーターなどを務め、活躍の場を広げた。
「今はコーディネーターさんや通訳さんがつきますが、当時はコーディネーターも通訳もすべて私ひとりでやっていて、入国の書類を通したりするのも得意でした。日本ではダラダラしているくせに、英語になると人格が変わったかのようにシャッキリするんです(笑)。父も祖父も商社マンでしたから、どこかでそうした血を引いているのかもしれませんね」
1986年1月、事件は起こった。テレビ番組の収録で訪れたケニアのナイロビで、松島さんはライオンに襲われたのだ。
「『野生のエルザ』で知られる、ジョイ・アダムソンの夫のジョージ・アダムソンの日常を撮るという企画で、私はインタビュアーとして現地に行きました。ジョージと出会ったその日、ジョージが一瞬目を離した瞬間に、ライオンに頭をかまれてしまったんです」
出血も痛みもひどい。普通ならここで仕事は諦め、日本に戻るだろう。しかし松島さんは現場に戻った。
「だってそのとき、私はまだ1テイクも撮っていなかったんですもの。『私は何のためにケニアに来たの? ライオンにかまれに来ただけ?』と思ったし、今どきの表現ではないけれど、『このまま帰ったら女がすたる』というような気持ちで撮影を続けました。たしかに出血などはひどかったけれど、命に関わるものではないと自分で判断したんです。まさかその後に “ヒョウの部” が待っているとは思ってもいなかったけれど(笑)」
ナイロビの病院で手当てを受けた松島さんは、またもや撮影現場に戻った。ギプス姿で痛み止めの薬を飲みながら、死をも覚悟して……。そして何とかインタビューを終え、満身創痍で日本に帰国。
「ナイロビの病院の見立てがいい加減だったものですから、日本の病院で診てもらって初めて第4頸椎粉砕骨折とわかりました。お医者さまからは『あと1ミリずれていたら、全身麻痺になるか、死んでいたかですよ』と言われたほどです」
この事故を経て、松島さんの人生観は180度変わったという。
「主治医に『私はあとどのくらいで仕事に復帰できますか?』と毎日のように聞いていましたが、『生きて帰ってこられただけでも幸せだと思ってください』と言われました。この先をどうやって生きていくのか、考える機会でもありました」
二度の猛獣襲撃事故
私は “ライオンの餌” ではありません(笑)
松島さんは2020年8月からブログを始めた。その名も「ライオンの餌」! まるで猛獣襲撃事件を笑い飛ばすかのような、このタイトルの由来は永六輔さんの言葉。
「永さんのコンサートにゲスト出演したとき、永さんが『今日のスペシャルゲストは “ライオンの餌”!』とおっしゃったんです。舞台袖でスタンバイしていた私は『えぇ~!?』とびっくりしましたが、『松島トモ子!』と呼ばれたら、お客さまにドーッとウケた。私は仕方なく出ていきましたが、ウケたもので永さんが気に入っちゃって(笑)、しばらくはそんなふうに紹介されていました」
コンサートで共演したり、演出を担ってもらったり。交流は永さんが亡くなるまで60年以上続いた。
「私がものを書いたり、人前でしゃべったりできるようになったのは、永さんが身をもって教えてくださったからだと思っています」
永さん以外にも、松島さんには忘れられない思い出がある。それは、作家の宇野千代さんとの出会い。
「宇野先生からは『トモ子、プライドはとっても大事なものよ。だからプライドは絶対に捨てちゃいけません。だけど、あなたのそのプライド、少しずらしなさい』と言われました。若いときはその言葉の意味がわかりませんでしたが、今になってみると、プライドを少しずらすと光が見えるのだとわかります。ありがたいお言葉をいただきました」