松島トモ子さん「理不尽なこと、辛いことも視点を変えれば喜びや楽しみが見つかります」
介護生活の中にもささやかな喜びはある
松島さんを陰になりひなたになり支え、二人三脚で人生を歩んできたのが母・志奈枝さん。“一卵性親子”と呼ばれるほど、常に一緒だった。そんな最愛の母に異変が。95歳の誕生日祝いの食事会で失禁。そこからはつるべ落としのようにどんどん悪化し、罵詈雑言を吐く、花瓶を投げる、夜中に家から逃げ出す……。
「“親バカ”ならぬ “娘バカ” と言われるかもしれませんが、母は95歳までレディで美しくて、『こんなお年寄りなら私もなってもいいわ』と思っていたくらい。いつもハイヒールを履いて、スポーツタイプの車を運転して、とにかく颯爽としていました。そんな母が目の前で壊れていくのを見るのが、本当に辛かった……」
2016年、志奈枝さんはレビー小体型認知症との診断を受けた。友人からは、「トモ子は家事ができないから、施設で暮らしたほうがお母さまも幸せよ」とすすめられたが、志奈枝さんは施設入居を断固拒否。過酷な在宅介護が始まった。
「母は戦後、旧満州の奉天から日本へ命からがら私を連れ帰ってくれました。その母が私と離れたくないと言うのですから、自宅で介護しようと覚悟を決めました。とはいえ、介護はきれいごとではすまされません。『やっぱり施設に……』と、毎日のように心が揺れ動きました」
介護生活は約5年半続いた。そして2021年10月、志奈枝さんは100歳で永遠の眠りについた。
「亡くなる前の晩、母は目をパッチリ開けて、眠ろうとしないんです。『ママ、どこか痛い? 苦しい?』と聞くと、頭を振る。『怖い?』と聞いたら、『うん』とうなずきました。私が介護用ベッドに潜り込むと、母がしがみついてくるので、一晩中抱き締めていました。温もりを感じていましたが、次に気づいたときはもう冷たくなっていて……。母を喪ったことはとても悲しいけれど、最期まで自宅で看ることができて本当によかったと思っています」
一卵性親子と呼ばれた母を在宅介護
困難を何とかして喜びに変える
70年以上に及ぶ芸能生活、さまざまな苦難、そして自宅での老老介護。松島さんの人生を支え、笑顔を咲かせてくれたのは、幼い頃に母から贈られた一冊の本だった。
「アメリカの作家、エレナ・ホグマン・ポーターの作品で、村岡花子さんが翻訳した『少女パレアナ』。パレアナは孤児で、慰問袋の中にお人形が入っていることを願っていました。でも、出てきたのは松葉杖。パレアナは『どうやったらこの松葉杖で喜べるだろう』と考えます。『どんなことの中にも喜びを見つけなければいけない』という遊びを始めたんですね。私も小さい頃からパレアナのように “喜びの遊び” を実践してきました。
芸能生活ではうれしいことがたくさんあった半面、理不尽な目に遭ったり、辛い思いをしたことも。そういうときは『これを何とかして喜びに変えよう!』って。ヒョウにかまれて大ケガをしたときも、この遊びを思い出して『あのヒョウの毛皮をちょうだい。コートにしたいから』なんて言いましたね。全然ウケませんでしたけれど(笑)。母の介護のときも、そんなふうにして喜びや楽しみを見つけ出し、口角を上げるようにしました。“喜びの遊び” から指針を得て、前向きに歩いてきたように思います」
※この記事は「ゆうゆう」2022年1月号(主婦の友社)の内容をWEB掲載のために再編集しています。
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