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81歳・現役女医。男女差別が当たり前だった戦後の生活…乗り越えた「鉄のメンタル」

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天野惠子

天野さんは週2回の女性外来を担当中。「患者さんファースト」が信条。ほかの医療機関で治療がうまくいかなかった患者さんが全国から訪れる。

「ゴーイングマイウェイ」と呼ばれた鉄のメンタル

仲よしの女の子の祖母が亡くなり、母に「人はどうして死ぬの?」と聞いたところ、「惠子がお医者さんになって、死なないようにしてあげて」といわれた7歳の出来事。これをきっかけに、私は医師を志すことになったのです。

意志が強く、やると決めたらやり抜くタイプでしたから、以来、「将来は日本一の医師になる」と決め、中学・高校・大学時代は、その目標を叶えるために、勉学に励みました。

大学卒業後医師となり、26歳で留学のため渡米し、ニューヨークの病院で内科医として勤務(この間に、イエール大学に留学していた医学部時代のクラスメイトの脳外科医と結婚)し、その後、夫婦でカナダに移り、研究生としてマクギル大学の病院で学びました。帰国したのは29歳ごろですから、海外でのキャリアは短く、その後3年間は子育てに専念していました。

しかし、当時は日本よりはるかに進んでいたアメリカやカナダの医療現場で最先端の医療に携わったという経験は大きな自信となり、ブランクがあっても、不安や焦りを感じることはありませんでした。

3人の娘を抱え、念願の東大医学部附属病院第二内科の医局員として夜遅くまでがむしゃらに働きました。

医局内の秩序よりも、患者さんの立場を優先して行動しており、上司や組織のためのご機嫌とりなど一切しませんでしたから、いつしか医局内では「ゴーイングマイウェイの天野先生」なる異名で呼ばれるようになりました。

たとえば、少し専門的な話になってしまうのですが、心臓カテーテル(狭心症や心筋梗塞などで狭くなった冠動脈をバルーンカテーテルと呼ばれる先端に風船のついた管で広げる治療法)が黎明期だったころ、私は、その治療をする必要がある患者さんを他大学に紹 介していました。また、手術を他大学の循環器外科医に依頼することもありました。

上司や同僚から、「それでは東大の循環器外科のスキルが上がらない」と何度も苦言 を呈されましたが、そうはいわれても、患者さんの命のほうが大事です。縁あって私のもとを訪れた患者さんに最善の医療を受けさせたい。私が他大学に患者さんを送っていたのは、その一心からでした。

その後、無給の医局員から有給の助手へ、助手からワンランク上の専門助手へとキャリアを積みますが、医局内では少なからず波風が立つようになり、理不尽な目にあうことも多かったように思います。とはいえ、相手に対して感情的になったり、怒りをあらわにしたりすることはありませんでした。人とぶつかって得することは何もないとわかっていたからです。

もちろん、だからといってじっと耐え忍ぶというわけでもありません。

私のことをよく思っていない人がいても、私にとってはまったく関係のないどうでもいい存在。そんな〝外野の雑音〞はスーッとやり過ごして、淡々と飄々と、私は、自分がやるべきことをやり続けました。私は「私は私、人は人」を貫く。だれに何といわれようと、「私は私」があれば、動じることはなく、気持ちをフラットに維持することができるのです。

単なる唯我独尊はどうかと思いますが、信念があったうえでのゴーイングマイウェイなら、結構なことではないでしょうか。

※この記事は『81歳、現役女医の転ばぬ先の知恵』天野惠子著(世界文化社)の内容をWEB掲載のため再編集しています。

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81歳、現役女医の転ばぬ先の知恵

天野惠子著
世界文化社刊

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