【べらぼう】田沼意次(渡辺謙)と田安賢丸(寺田心)は何でもめているのか?
公開日
更新日
鷹橋 忍
田安賢丸が松平定信になった経緯は?
賢丸について簡単にご紹介しましょう。賢丸は宝暦8年(1758)12月に生まれました。享保4年(1719)生まれの田沼意次より39歳、寛延3年(1750)生まれの蔦屋重三郎より8歳年下になります。
母は側室の「とや(山村氏)」ですが、花總まりさんが演じる正室の宝蓮院(ほうれんいん/森姫)に養われたといいます。賢丸は幼い頃から、将軍を支える賢明な宰相となることを心願し、文武の研鑚に励み、才能を発揮したといいます。
吉宗の孫ですので、将軍就任もあり得ない話ではありませんでした。ですが安永3年(1774)3月、17歳のときに賢丸の運命は大きく変わることになります。
時の将軍である眞島秀和さんが演じる十代・家治(いえはる/九代将軍・徳川家重の子)の命により、陸奥(むつ)白河藩主である松平定邦(さだくに)の婿養子となることが決定したのです(高澤憲治『松平定信』)。松平定邦は家格を上昇させるため、徳川一門である賢丸の婿養子入りを望んだといいます。
当時の田安家の当主は、賢丸の兄・入江甚儀さんが演じる田安治察(はるあき)でしたが、子のいない治察は賢丸の婿養子入りに賛成ではありませんでした。ですが松平定邦は田沼意次の力を借りて、田安家の反対を押し切り、賢丸を養子に迎えたといいます。
同年(安永3年)4月、賢丸は松平定邦から贈られた「定信」の名に改め(本記事では以降も「賢丸」と表記)、5月には養家に移る儀式も催しましたが、田安家での居住を続けていました(以上、高澤憲治『松平定信』)。
すると兄・治察が病に臥し、同年8月28日22歳でこの世を去ってしまいます。治察には跡継ぎがいなかったため、田安家は賢丸の家督相続を幕府に願い出ました。ところが幕府、すなわち田沼政権はこれを却下し、田安家は当主不在に陥ってしまいます。一説に、田沼意次は逸材である賢丸を危険視していたともいわれます。
田安家を継げなかった賢丸は八丁堀にあった白河藩の上屋敷に移り、天明3年(1783)26歳で松平家の家督を継ぎ、白河藩主となりました。
この頃、東北各地では「天明の大飢饉」により数多くの餓死者が出ましたが、賢丸の白河藩では餓死者はおらず、賢丸は名君と称えられています。
田沼意次への憎しみは、殺意を抱くほど…
奥智哉さんが演じた十代将軍・徳川家治の嫡男・徳川家基(いえもと)が、安永8年(1779)18歳で急逝します。跡継ぎを失った家治は、一橋治済の子・豊千代(とよちよ)を養子に迎え、豊千代は正式に将軍継嗣となり、のちに十一代将軍・徳川家斉(いえなり)となりました。
この養子の選定という大任の中心を担ったのが、田沼意次です。もし、賢丸が田安家を継いでいれば将軍継嗣候補となり、十一代将軍就任への道が開けたかもしれません。そんな思いもあってか、賢丸は田沼意次を、殺意を抱くほど激しく憎んだといいます(以上、安藤優一郎『蔦屋重三郎と田沼時代の謎』)。ドラマの賢丸も、田沼意次を憎み続けるのでしょうか。
また、のちに賢丸が主導する「寛政の改革」では、蔦屋重三郎も問題視され、処分を受けることになります。蔦屋重三郎と賢丸の対決も楽しみですね。
▼あわせて読みたい▼
>>2025年大河ドラマ【べらぼう】横浜流星が演じる「蔦屋重三郎」って、何をした人? >> 紫式部(吉高由里子)の娘・賢子(かたこ/南沙良)は「光る女君」になった?多くの貴公子に恋した生涯を紹介【光る君へ】 >>『源氏物語』のあらすじをわかりやすく解説 「光る君」の恋愛遍歴と栄華、その翳りとは?