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紫式部(吉高由里子)の娘・賢子(かたこ/南沙良)は「光る女君」になった?多くの貴公子に恋した生涯を紹介【光る君へ】

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鷹橋 忍

NHK大河ドラマ「光る君へ」がいよいよ最終回を迎えます。吉高由里子さんが演じる紫式部の娘 賢子(かたこ)について、作家 鷹橋 忍さんに、ご紹介いただきましょう。

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大河ドラマ『光る君へ』で、母である紫式部(ドラマでは、まひろ)が帰京して、南沙良さんが演じた娘の藤原賢子は「光る女君となって……」と言っていましたね。

賢子はどのような生涯を送ったのか、ご紹介したいと思います。

賢子の父親は?

藤原賢子の父親はドラマでは藤原道長ですが、南北朝時代に編纂された諸家の系譜集『尊卑分脈』には、佐々木蔵之介さんが演じる藤原宣孝の娘として、その名が記されています。

賢子は、長保元年(999)頃に生まれたと推定されています。
紫式部の生年には諸説ありますが、仮に天延元年(973)説で計算すると、彼女が数えで27歳のときの子となります。

ドラマでも描かれたように、賢子も長じると、母と同じく見上愛さんが演じる彰子に仕えます。
彰子に出仕した時期は諸説あり、定まっていません。

賢子は、岸谷五朗さんが演じる祖父の藤原為時が、左少弁を務め、越後守に任じられたことから、「越後弁」と称されたといいます(南波浩校注『紫式部集』)。

百人一首の賢子の歌

彰子に仕えるようになった賢子ですが、彼女は多くの歌を詠み、母・紫式部とともに女房三十六歌仙の一人に数えられるなど、歌人としても高く評価されました。
『後拾遺和歌集』巻第十二 恋二に所出する賢子(作者名は大弐三位)の歌

有馬山 ゐなのささ原風吹けば いでそよ人を 忘れやはする
(有馬山に近くの猪名の笹原で風がそよそよと音をたてるように、私はけっしてあなたのことを忘れません)

は百人一首に選ばれています。

賢子の恋

ドラマでは伊藤健太郎さんが演じる武者・双寿丸との淡い恋が描かれましたが、賢子は町田啓太さんが演じる藤原公任の子・藤原定頼、益岡徹さんが演じた源雅信の孫・源朝任(黒木華さんが演じる源倫子の異母兄・源時中の子)、上村海成さんが演じる藤原頼宗(道長と瀧内公美さんが演じる源明子の子)など多くの貴公子と恋をしたようです。

後冷泉天皇の乳母の一人に抜擢

賢子は万寿2年(1025)、27歳ぐらいの時、親仁親王(のちの後冷泉天皇)の誕生にともない、その御乳母の一人に選ばれました。

親仁親王とは、当時の東宮(皇太子)敦良親王(父は塩野瑛久さんが演じる一条天皇、母は彰子/のちの後朱雀天皇)の皇子で、母親は道長と倫子の娘・藤原嬉子です。

嬉子は、親仁親王を出産して数日後に、19歳で死去してしまいます。
さらに、親仁親王の乳母に決まっていた女性が、病のため、その役目を辞退しました。
そのため賢子が、抜擢されたのです。

左衛門督とは何者?

歴史物語『栄花物語』巻第二十六「楚王のゆめ」では、親仁親王の乳母の一人となった時の賢子を、「左衛門督の御子を産んだ者」と称しています。

「左衛門督」とは、通説では、万寿2年当時に左衛門督であった、玉置玲央さんが演じた藤原道兼の二男・藤原兼隆と解釈されています。

ですが、左衛門督は「左兵衛督」の誤りで、賢子の相手は当時、左兵衛督であった、金田哲が演じる藤原斉信の養子・藤原公信だったとみる説もあります(萩谷朴『紫式部日記全注釈 上巻』)。

賢子の相手は兼隆だったのか、公信だったのか。もしくは両者だった可能性もあり得るといいます(服藤早苗 東海林亜矢子『紫式部を創った王朝人たち——家族、主・同僚、ライバル』所収 栗山圭子「第十三章 天皇乳母としての大弐三位——母を超えた娘」)。

いずれにせよ、賢子は乳母として親仁親王の養育にあたり、「越後の弁の乳母」、「弁の乳母」などと称されました。

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