「ろくでなし!」愛と憎しみを超えて。80歳の元ミス日本代表・谷 玉惠さん 自由への最終章【私小説・透明な軛#6】
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谷 玉惠
「ろくでなし!」
現れた夫は険しい顔で言い放った。
「こんなことだろうと思った」
来るや否やの一声である。
夫を女の隣に座らせた。一瞬の静寂があった。少し落ち着いて知香は言った。
「私が彼女のところから帰った後に電話して、僕が守るからって言ったそうじゃない」
夫は引きつった面持ちをしている。
「結婚するとも言ったみたいね。愛してる、とも。なぜ結婚しないの? すればいいじゃない!」
「いいえ、もういいんです。私はすっかりその気がなくなっているのですから」
女は勝ち誇ったように言った。
「私がおさまらないわ。どうして僕が守るって言ったの? どういうこと?」
知香は女のためより自分のために知りたいと思った。
「知香が彼女から慰謝料を取ると言ったから、離婚しなければ慰謝料は取られないで済むと思って」
「それが彼女を守るってこと? 慰謝料を払わせないことが彼女を守るっていうこと?」
「……」
「本当は慰謝料の件さえなければ離婚をして彼女と結婚したかったっていうこと?」
「そうじゃない。うまく言えないけど……もういいじゃないか!」
「よくはない。彼女には他に男がいるみたいだって以前、あなたは言っていたけど、中田さん、他につきあっている男性がいるの?」
「いいえ」
「本当にいなかったのか?」
夫が隣の中田美喜をぐっとにらんだ。なぜ、彼女をにらんだのだろう? たっぷり未練があったのに、彼女に他の男の存在を感じ始めたのであきらめたのだ、と言わんばかりのにらみだと知香には思えた。
急に自分が憐れで惨めになった。知香は立ち上がり、吐き捨てた。
「ろくでなし!」
店を出ると、冷気が体を突き抜けた。悲しいはずなのに、さっぱりしている。すぐに後から夫と女が前後して出てきたが、タクシーに飛び乗り、二人を置き去りにした。
家に戻ると、少し遅れて夫が帰宅した。胸の中には罵りの言葉が渦巻いていたが、ぐっと飲み込んで、くるりと背を向けた。
——これで終わりにしよう。
夫の浮気が洗いざらい明らかになったいま、澱んでいた心の闇が薄れ、むしろ安堵さえ覚えた。そして心に決めた。
探究心の強い性格だから、知らなくてもいいことも掘り下げて知ってしまった。
そして、夫だから、妻だからということだけで、胸が引き裂かれるような苦しみを味わうことになった。
明日は迷わず離婚届を出そう。
知香は胸の奥に宿した決意にゆるぎがないことを確認した。
