「ろくでなし!」愛と憎しみを超えて。80歳の元ミス日本代表・谷 玉惠さん 自由への最終章【私小説・透明な軛#6】
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谷 玉惠
羨望の視線の先に
5人の客が顔をそろえた。ワインで乾杯し、料理を口にし始めると、堰を切ったように感嘆の声が上がった。
「知香さんって、本当にうらやましいわ。こんなにやさしくて料理上手のご主人と仲よく暮らせるなんて。私の主人にも見習ってほしいくらい」
「いや、ぼくにはとても真似はできないよ」
その夫が脱帽したかのように応じた。
「どうしてこんなに料理上手なんです? 最初から料理が好きだったの? それとも知香さんが仕込んだの?」
褒め言葉と質問が次々と浴びせられる。知香はニコニコしながら、キッチンの夫へ視線を送るばかりだ。
ひとりの客が立ち上がり、サイドボードへ向かった。積んであった本を手にしながら驚嘆の声を上げる。
「料理の本がこんなにたくさんある。フレンンチが3冊にイタリアン、和食まで。すごいわねえ。これって、もしかして秀雄さんが買ってきたの?」
「そう。みんな彼が選んで買ったの」
知香が笑顔で応える。
「夕飯も秀雄さんが作るの?」
「ええ。当番制だけど、週4回は彼がつくるの。仕事から帰るとすぐキッチンに立っているの」
「わあ、いいなあ、ほんとうにらやましいわ」
女性たちの羨望の眼差し受けながら、知香はキッチンへ向かった。棚には二十数種類の香辛料が整然と並んでケースに収められている。すべて秀雄が買ったものだ。料理のレパートリーが広がるにつれてスパイスの数も増えていった。
無水鍋にフランス製の鍋ル・クルーゼもそろえた。今日のメイン料理は、ル・クルーゼで仕込んだフランス風田舎鍋料理だ。重厚な鍋の蓋を開ける、スパイスとにんにくの香りが立ち上り、まるでフランスにいるかのような気分にさせてくれる。知香にとって、スパイスの香りはフランスそのものだった。秀雄のレパートリーのなかではこの鍋料理が一番好きで、出来上がる前から鼻がひくひくしてしまうほどだ。
知香は重い鍋を慎重にテーブルへ運び、厳かに蓋を開けた。
「わあ、すごい! いい香り!」
一斉に声が上がる。
知香は得意げにうなずき、キッチンのほうへ目で合図した。5人の拍手を受けながら、秀雄が自分の席に着いた。
誰も知らない秘密
知香には、夫の浮気が発覚する前の数年間、心を奪われた男性がいた。年下の夫に物足りなさを感じていたころ、異業種交流会で知り合ったマーケティング会社の社長。知香より一つ年下だったが、よどみなく続く会話や哲学論を交えた巧みな話術に、すっかり魅された。毎週のように会い、夜11時、12時まで話し込むこともあった。
その間、夫はひとりで夕食をとり、寂しさを抱えていたはずだが、知香は振り返ろうともせず、身勝手で強気な態度をとり続けた。
やがて夫の浮気が発覚した後は、さすがに知香は出かけなくなったが、その時のことを引き合いに出すことはなかった夫は、潔い人だったと後に知る。
離婚届を出してから、3年になる。そのことを身内以外はだれも知らない。旧姓に戻さず、以前と同じように暮らしを続けているけれど、紙切れ一枚の呪縛から徐々に解き放されてきた実感があった。
離婚後も、食事や掃除など家事は分担制だ。夫は料理に凝り始め、出刃包丁から柳包丁までそろえ、刺身が食卓に並ぶようになった。
「知香のために、何がいいかいつも考えているんだ」
その言葉に、偽りはなかった。知香専用の料理人のごとく献立を工夫してくれる。今日の料理もその心配りに満ちていた。
夫の浮気は許せない。けれど、活かし方次第では悪くない。そう思うようになっていた。
友人たちに食後のコーヒーを淹れながら、知香は誰も知らない秘密を胸に、幸せな奥様を演じた。
完
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