「ろくでなし!」愛と憎しみを超えて。80歳の元ミス日本代表・谷 玉惠さん 自由への最終章【私小説・透明な軛#6】
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谷 玉惠
今年の夏、80歳を迎えた元ミス・インターナショナル日本代表、谷 玉恵さん。年齢を感じさせない凛とした佇まいは、今も人を惹きつけます。そんな谷さんが紡ぐオリジナル私小説『透明な軛(くびき)』を、全6回でお届けします。最終回の第6回は、「二人の女と、ひとつの家」。
※軛(くびき)=自由を奪われて何かに縛られている状態
▼第5回はこちら▼
妻の逆襲「不倫の後始末を私が!?」80歳の元ミス日本代表・谷 玉惠さんが描く【私小説・透明な軛#5】#6 二人の女と、ひとつの家
夫ではなく、一人の人間として
夫の浮気が発覚して半年ほど経ったころ、知香の胸にひとつの考えが湧いた。
——やはり、離婚しよう。
秀雄を「夫」ではなく、一人の人間として見直してみたいと思った。
浮気が発覚する前、夫の本心を知りたくて離婚届を突きつけたことがある。そのとき夫は渋々ボールペンを持ったが、知香が上から手を添えた。完全に拒むなら、そもそもペンは握りはしない。渋っているように見せるポーズだと彼女は受け止めていた。
知香はこれまで怒りに駆られ、夫を監視し、行動を束縛し続けてきた。「夫だから許せない」「妻だから権利がある」と思い込んで。
だが今は、そんな自分の感情がうとましくなっていた。
そして、離婚する前に知香は、あの女にもう一度会ってみようと思った。女は浮気の後も夫と同じ職場にいて、辞める気配はない。その神経が許せなかった。火種は消しておかなければならない。
知香は自由が丘で待ち合わせ、半年ぶりに女と顔を合わせた。ベージュのオーバーに、薄化粧。緊張で顔を硬くして、以前より老けて見えた。駅前ロータリーの向かい側いにある「ローゼン」という喫茶店に入った。人目につかない2階の端の席へ。注文がそろうと知香が口を開いた。
「離婚することにしたの。それで慰謝料を払ってもらおうと思って」
女は黙ったままうつむいている。
「もし慰謝料が払えないのなら、職場を辞めてほしい」
いつまでも夫と同じ職場に居続ける女に、不倫の怖さや妻の苦しみを思い知らせたかった。
そのとき思いもよらぬ言葉が返ってきた。
「誘ったのは確かに私からですが、二度目は、ご主人からだったんです」
予期せぬ言葉に、一瞬ぎょっとして冷静さを失った。確かにあり得ることだが、二度目だったとしても、夫が女を誘うということは知香の頭にはなかった。女は、こうなったらすべてを言ってやろうとする構えをみせた。
「私もいけないと思ってやめようとしたのですが、佐山さんが結婚しようと言うので、ついその気になってしまったんです。女房とは別れる。女房とは性生活はない、と。愛してる、って言ってくれたんです」
——結婚? 愛してる?
唖然とした。自分にべったりだったはずの夫がなんということを! そこまで言うとは! 血の気が引いて、頭が真っ白になった。
それでも知香は精一杯反論した。
「それじゃ、結婚すればよかったのに。私は離婚するって言ったのに、なぜ?」
「奥様が家に来たあと、ご主人から電話があって、僕が守ってあげるから、って言われたんです」
耳を塞ぎたかった。妻より大事にされていた——という女の誇りが垣間見え、妻の立場が揺らぐのを感じた。聞かなきゃよかったと思ったが後の祭りだ。
形勢が悪くなり、夫に対する憎悪が湧き上がってきた。妻帯者がよくやる手口ではあるが、すべて控えめな夫がそこまでしていたとは。あらためて夫も男だったと思い知った。
知香は自分のことより目の前の女が哀れに見え、夫と女をまた元に戻してしまおうかと思った。
「許せないわ、ちょっと待ってて」
電話をかけに行った。
「主人を呼んで真意を聞かなくちゃ、おさまらないわ」
女に同情的になってしまった。許せないのは夫である。顔を見たらどうしてくれようかと思案していた。30分くらいして夫がやってきた。勘づいて来ないつもりかと思うほど長い時間だった。
