【豊臣兄弟!】謎多き人物・明智光秀(要潤)の出自は? 足利義昭(尾上右近)との出会いはいつ?
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鷹橋 忍
明智光秀
江戸時代後期に編纂された『明智軍記』などによれば、光秀は美濃国守護・土岐氏の一門の明智氏の出身だとされます。
弘治2年(1556)に起きた美濃斎藤氏の内乱(麿赤兒さんが演じた斎藤道三と、彼の子であるDAIGOさん演じた斎藤義龍の争い)によって、明智氏の本拠・明智城(岐阜県可児市)をおわれると、越前の朝倉義景のもとに逃げ延びました。
光秀は長崎(福井県坂井市)の称念寺(しょうねんじ)で10年を過ごした後に、足利義昭に仕えるようになったといいます。ですが、同時代の史料からは、明智光秀の前半生はほとんどわかりません(以上、鈴木将典「明智光秀––––日本史上で最も有名な「裏切り者」の実像」柴裕之編『戦国武将列伝 別巻1 織田編』所収)。
生年は享禄元年(1528)説、永正13年(1516)説などがありますが、記載された同時代の史料がないためはっきりしていません。
両属の家臣
光秀がいつから足利義昭に仕えるようになったのかも不明ですが、越前一乗谷に滞在中の義昭と細川藤孝に出会い、義昭の「足軽衆」として活動をはじめたと考えられています(柴裕之編『図説 明智光秀』)。光秀は義昭の上洛を果たすために、細川藤孝とともに力を尽くしました。
永禄11年(1568)7月、義昭が信長を頼って美濃へ移ると、光秀も付き従ったようです。同年10月に義昭が第十五代将軍に就任すると、光秀も京都に入りました。
永禄12年(1569)には、秀吉ら信長の家臣ともに、京都支配の実務担当者に抜擢され、将軍・義昭の家臣としてだけではなく、信長の政務官としての経験も重ねていきます。この時期の光秀は義昭の家臣であり、信長の家臣でもあるという両属の状態でした(金子拓『増補 信長家臣明智光秀』)。義昭と信長の間を調整するという、他の織田家の部将では果たせない役割を担い、特別な存在だったといいます(福島克彦『明智光秀 織田政権の司令塔』)。
元亀2年(1571)9月の織田軍による比叡山焼き討ちにも、光秀は積極的に関与したとされます。信長は光秀を高く評価し、比叡山焼き討ち後、光秀は信長から近江国志賀郡を与えられ、京都の比叡山領の管理を任されました。
やがて、義昭と信長は対立します。元亀4年(1573)、義昭が挙兵すると、光秀は義昭を見限り、信長に味方しました。同年7月18日、義昭は降伏し、河内に逃れます。これをもって室町幕府は実質的に滅亡し、光秀は信長の部将として、頭角を現わしていくことになります(鈴木将典「明智光秀––––日本史上で最も有名な「裏切り者」の実像」)。
光秀が本能寺の変を起こすのは、もう少し先の話です。
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