大島弓子の漫画『さようなら女達』を久しぶりに読んでみたら。「心象風景の描き方に今また感動」
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Anmitu
学生のとき夢中になって読んだ漫画は、どんな作品でしょう。時を経て今、久しぶりにその漫画を一気読みしたら、どんな感想をもつのでしょう。1976年9月号から4回に渡って『JOTOMO』(小学館)で連載された、大島弓子さんの『さようなら女達』を、久しぶりに一気読みしたマチュア世代ライターのレポをお届けします。
※ネタバレにご注意ください。
さよならするから、こんにちは、に出合えるの?の謎
どんなに愛していたか、どんなに大切であったか、失ってわかるというけれど、逝ってしまった存在の大きさに、心は現実を受け止め難く、前を見ることも、横を見ることもできず、誰しも後ろばかりを見てしまう……。
高校生の舘林毬は漫画家になるのが夢。きっかけは、心臓の弱い母の体質を受け継ぎ、突然逝ってしまった兄そっくりの絵を描いて、「おい毬」と吹き出しをつけたひとコマが
「まるで兄さんが生きかえってきたみたいで、うれしくてひとばんないた。」
ことからだった。
兄を失った喪失感の大きさと意味、ましてや親の気持ちなんて想像すらできず、言葉にできぬ感情を胸の奥にしまい、マンガを描くことで悲しみを保留するかのように毎夜、布団にもぐりこっそりとマンガ描きに没頭する。そんなある日、寝不足がたたり倒れてしまい父にバレてしまう。このままでは、母(妻)に与えるストレスが大きいと案じた父は、漫画コンテストで第一席を取ったら漫画家の進路を認める、落選したら漫画家の道を諦める、という誓いを毬にさせるのだった。
何としても一席を!と作品づくりに励むなか、作中の登場人物のポージングモデルに選んだ数学教師を観察するうち思慕が芽生える。また、やたらとつっかかってくる同級生茗には、作品をコテンパンに酷評される。
ほどなくして、毬は気づく。数学教師への思慕は、もし生きていたら、の兄の姿を重ねていたことを。同級生、茗は好きだった毬の兄の後ろ姿を、妹の毬に重ねていたことを。
――茗は、自分の感情を整理したいと転校を決め毬の前から去り、数学教師には思い人がいることを知り、そして生きる拠りどころとしていた漫画は落選してしまう。
「あたしはともすれば
分裂しそうな
精神をふりしぼって
さよならを三度いうことにした
さよなら茗
さよなら初恋らしきもの 数学の先生
さよならまんがかき
(略) 」
何を目標に、どこへ向かえばよいのか、行き先を見失い……そんなとき。娘の身を案じながら、母も突然逝ってしまう。取り返しのつかない時間、償いようのない後悔。灯りの消えた闇夜の空から、雨がザーザーと降る。ザーザーと。
毬は、その悲しみと向き合うのだった。
あまりに心が痛い。何度読んでも涙をこらえられず号泣してしまう。
抱える葛藤や悩み、罪の意識や責任。それはいつの時代も、いくつになっても根っこにある苦しみは同じ色を帯びている。街ですれ違うこの人も、電車で隣り合わせになったこの人も、実は心に深い悲しみを抱き、雨がザーザーと降る雨音に、耳を傾けるしかできない「絶望」という夜を過ごしたことがあるかもしれない、と。
だから、強くなりたい、優しくなりたい、と思う。
生き辛いからこそ、正直であろうとする自覚が自分を強くする。自分を見る目を持つことで、他者を自分ごとのようにイメージでき優しくなれる。