80歳 多良久美子さんの家計管理「物価高騰で家計が苦しくなってきたので家計簿を再開しました」
物価高のいま、みなさんはどんな工夫をしていますか。80歳の多良久美子さんは、家計簿を再開。支出の変動をデータ分析して楽しいことにしてしまいます。話題の新刊『80歳。いよいよこれから私の人生』から、家計管理の様子をご紹介しましょう。多良久美子さんの姉は、12万部のベストセラー『87歳、古い団地で愉しむ ひとりの暮らし』の多良美智子さんです。
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80歳 多良久美子さんの「先のことを思いわずらわない」生き方とは?眠りにつくときのコツ
プロフィール
多良久美子さん
(たら・くみこ)
昭和17年(1942年)長崎県生まれ。8人きょうだいの末っ子。戦死した長兄以外はみな姉妹。2歳のときに被爆。翌年母を癌で亡くし、父と姉たちに育てられる。
高校生のときに父の会社が倒産し、進学を断念。24歳で結婚後、4歳で麻疹により最重度知的障がいとなった息子を育てる。娘は早逝。80歳を前に、長く携わってきた社協の仕事を引退、「障がい児・者の親の会」は相談役に。「これからは私の時間!」と、これまで忙しい日々で細切れにしかできなかった趣味の織物やピアノに、どっぷりつかる日々。料理やインテリアなど「家時間」を楽しむのが好き。姉は、12万部のベストセラー『87歳、古い団地で愉しむ ひとりの暮らし』(すばる舎)の多良美智子さん。
ずっと家計は大変だった。今も年金の中で簡素に暮らしています
夫は60歳で定年退職しました。それから年金生活になりましたが、周囲の友人と話したら、わが家の年金は他のお宅よりだいぶ少ないようです。
その理由は、他の人より働いている期間が短かったから。夫は大学に入る前に浪人をして、 28歳まで学生でした。18歳や22歳で社会に出ている人より年金保険料を納めていないのです。
定年後に、あら!と気がつきました。それでも、その中で生活していかなければ、と決心しました。
元々、全然貯金ができませんでした。息子が子どもだった当時は福祉が充実していなかったので、障がい児を育てるにはお金がかかりました。養護学校の送り迎えもガソリン代がかかり、車の傷みが早くて買い替えのお金も必要でした。
夫が55歳のとき、娘が学校を卒業して社会人になり、教育費がなくなりました。なかなか進路が定まらない娘には「自立できないなら、帰ってきなさい」と言って、仕送りはおしまいに。娘は帰郷することはなく、東京で自活しました。
同じ時期に家のローンも終わり、ようやく貯金ができるようになりました。
定年になるまであと5年、「よし、貯めよう」と思ってがんばりました。ボーナスは全額貯蓄へ回し、毎月の給料だけで生活できるように、やりくりしました。
5年間で、なんとか老後に困らないように貯金ができました。退職金は、夫と2人で山分け(笑)。とはいえ、家計は私が預かっているので、一括管理をして老後資金になりました。
定年後は、夫の年金だけで生活するようにしています。4年後に、少額ですが私の年金も入ってくるようになりましたが、それは特別出費用として全額貯金。
毎月の予算は決まっています。7万円を銀行口座から引き出します。内訳は、食費や日用品費などの生活費に6万円、夫の小遣い1万円です(夫はほとんど家にいるため、この額で余るくらい)。
口座に残したお金から、水道光熱費や通信費、ガソリン代、カード決済の買い物、固定資産税などが引き落とされます。生協の引き落としもここから。食材や日用品を購入し、だいたい月2万円です。
私の年金や定年前に貯めた貯金、それから退職金は、特別出費用です。冠婚葬祭や車の買い替え代、家のメンテナンス、旅行などに使っています。田舎なので車は必需品で、定年後に3台買い替えました。あと1回必要かな......、これはまだわかりません。