昭和の恋愛と認知症の母の記憶。ツンデレは今も健在で…【認知症母との介護生活#55】
60代主婦の日常を、4コママンガとエッセイにしてブログで配信をしている、ぱいなっぷりんさん。その中から、「認知症母との介護生活」を順に紹介していきます。
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>>想像の遥か上を行く発想をする母に、考えたことは?【認知症母との介護生活#1】昔はモテた母…ツンデレは今も健在
遊びに来た 叔母から
母の 若かった頃の恋愛遍歴を
聞いた
そのエピソードは
私の知っていることも あったけど
初耳だったこともあった
母の 別の一面を見た気がして
なかなか 興味深かった
母は
戦後 すぐ
故郷 鹿児島から
はるばる 東京の学校に
進学させてもらった
同世代の男は
ギリ 出兵せずに済んだ
幸運な人たち
彼らと共に
一気に流れ込んできた 西洋文化を
謳歌したんだろう
東京で 5年間
夢のような キャンパスライフを
送ったらしい
あの頃が
人生で一番 楽しかったわ~
というセリフを
母から 何度も聞いたことがある
マンガ家を目指し
ジミーに大学生活を送っていた
私には
冗談でも 言えないセリフだよ
母は
結構 モテたようで
付き合った人は
何人も いたらしい
その中で
母の 本命は
Hさん
学生ボランティア活動で 知り合った
その人は
母の帰郷の度に
お洋服や 帽子を
プレゼントしてくれたらしい
東京の 最先端のファッションで
颯爽と 故郷の駅に降り立つ
母
そんな 姉を見て
当時
田舎の中学生だった 叔母は
私も 絶対 東京の学校に行って
恋愛する
と心に誓ったそうだ
あの頃 衣料品は
今とは 比較にならないくらい
高価で
それをプレゼントする(される)
ということは
つまり
お互い
結婚を 前向きに考えている
という 暗黙の了解があった
ところが
卒業後
またすぐ 東京に戻るつもりで
故郷に帰った時
母には
お見合い話が 用意されていて
有無を言わさず
お見合いさせられたそうだ
相手は
ブサイクだし 垢抜けないし
全く 母の好みのタイプじゃなかった
だけど
祖父が とても気に入って
勧めてくる
親の意向を 無視はできない
その プレッシャーの度合いは
今の時代とは 大分 違っただろう
母は
Hさんに 手紙を送った
家で お見合い話が進んでいる
でも もしあなたが
私と結婚する気が あるならば
鹿児島まで
すぐ 迎えに来てほしい
後年聞いた 母の友人たちの話では
Hさんは 共通の友人たちに
色々 相談したらしい
友人たちは
迎えに行くべきだ
と口を揃えて 言ったけど
Hさんは
お見合い相手は
親御さんが 気に入っていて
実に 立派なひとのようだ
彼と結婚したほうが
彼女は 幸せになるんじゃないか
そう 言って
ずっと 悩んでいたそうだ
結局
Hさんは 迎えに来なかった
そして
母は
父と 結婚した
先日
叔母から 初めて聞いた
母の 家出エピソードには
ちょっと びっくりした
あなたが
幼稚園くらいだったかしら
おかあさんが 夫婦喧嘩をした後
私の家に 家出してきたのよ
そして
Hさんに 会いに行く
と言って 出ていってしまった
その後を追うように
おとうさんがやってきて
妻の行き先を 知らないか
と聞かれたけど
私は 知ってる とは
言えないわよね
おとうさんは
ガックリと肩を落として
帰る 間際
この近くから
ニシタケ百貨店行きのバスは
出ているの?
と聞いてきたの
東京に住んで 結構経つのに
西武百貨店を
ニシタケ百貨店って 言ったのよ
その時 思ったのよ
おとうさんは
仕事に真面目すぎて
世間のことに
ホント 疎いのね って
妻が 何に怒っているのかも
わかってないのかもね って
その日 母は
夜になって 家に戻ったらしいけど
Hさんとの間に 何があったか
なかったか
それは わからない
ただ
私が 大人になってから
母が
あ~あ 私
Hさんと 結婚してたほうが
幸せだったかも
と独りごちているのを
何度か 聞いたことがある
そもそも
新婚旅行の時
母は 父のことが イヤでイヤで
後ろを ついて歩きながら
ずっと 舌を出していたそうだ
今の時代だったら
じゃあ なんで 結婚したの?
ワケわかんね〜
って感じなんだろうけど
でも
あの時代
少なくとも
母の育った土地では
一回お見合いしただけで
結婚することも
珍しいことじゃなかったし
実際
母の 10歳年上の姉は
結婚当日に
初めて 相手と 顔を合わせたそうだ
家のための結婚 とか
生きていくための結婚 とかも
普通にあって
むしろ
好きな人と 結婚できることのほうが
珍しかった
そんな
映画 昭和版「君の名は」の頃の
話
Hさんは
40歳過ぎて 結婚し
その後 ずっと 海外で暮らした
二人の間に 子はなかったそうだ
私が 20代後半
マンガ家だった頃だった
母が
Hさんから 送られて来たの
と言って
赤と青で縁取られた
エアメール用の封書を
見せてくれたことがある
それは
Hさんが
末期の癌であることを 知らせる
手紙だった
そして
最期の時間を
日本に戻って
軽井沢で過ごすことにした
とも 書かれてあった
母は
会いに行ったのか
行かなかったのか
私は もう家を出ていたので
分からない
1年ほどして
彼の妻 と名乗るひとから
電話があった
Hが 亡くなりました
そのことを
あなたに知らせてほしい との
彼の遺言だったので
電話しました
私は その時 偶然
家に帰ってきていて
傍らで その会話を聞いていた
びっくりした と同時に
誠実に 夫の遺言を実行した
妻の気持ちに
胸が締め付けられる思いだった
母は
その日 夜まで
自分の部屋から 出てこなかった
Hさんが 結婚前
まだ 日本で仕事をしていた頃
父が 車を運転していて
ちいさな追突事故を
起こしてしまったことがある
幸いなことに けが人も出ず
相手の人も いい方で
問題なく 事故処理は済んだ
その後 母は
父の代わりに その人の会社へ
お詫びの品を 届けに行った
会社に着き
教えられた部署に入っていくと
その部屋の奥に
なんと
Hさんが 座っていたそうだ
事故の相手の人の
上司だった
それは 父が引き寄せた
「ただの偶然」
だったのか
確率論的には
何も起こらない「ただの出来事」が
日々 星の数ほどある中で
例えば 何十年に たった一回起こる
「奇跡に思える出来事」は
「奇跡」 じゃなくて 「偶然」
ということなんだろうけど
それでも
この話を 母から聞いた時
私は 運命論者ではないけど
誰かが 采配したような
出来すぎたドラマを 観ているような
とても不思議な気持ちに なった
母も
なにかを感じた と思う
そして
今
認知症の母が
Hさんを思い出すことは
ほとんど 無い
1年ほど前までは
Hさんの名前を出して
ちょっとしたエピソードを 言えば
ああ…と言って
嬉しそうに 話し出すことも
あったけど
いずれ
二人の生きて過ごした 時も
その時感じた ときめきも
喜びも 悲しみも
この世から
完全に 消え去っていくだろう
その時
母の部屋の どこかにある
昔 Hさんからもらった
レコードや 本や
最後に受け取った 手紙 等々
かつて 母が大切にしていた
思い出のものたちは
ただの モノ になって
そこにあるだけ
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