「”国宝トーク”をしている間だけは現実を忘れられる…」アラフィフ女子が映画『国宝』に熱狂する本当の理由
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藤岡眞澄
観客全員が、前のめりでスクリーンを凝視する
ちなみに、吉沢亮はインタビューで、「(撮影では演目はすべて)頭からケツまでやる。何十回もやる」(『日曜日の初耳学』/TBS系)と答えている。舞台は、失敗は許されないけれど一発勝負で終わる。だが映像は、納得がいくまで撮影を繰り返す。しかも李相日監督の指示は、作品に使う部分だけでなく、毎回通しだった、という。
だからこそ、客席も舞台シーンになるとポップコーンどころか、息を飲み込むのも憚られるような静寂に包まれる。全員、前のめりでスクリーンを凝視。スクリーンと客席を満たす稀有な一体感。この空間こそ、日本映画史に刻まれる奇跡だと思う。
歌舞伎のバックヤードを覗き見する醍醐味
一方、『国宝』は楽屋の化粧前に座る喜久雄少年のうなじに白粉を刷毛でスーッと引くシーンから始まる。程なく半二郎の部屋子になった喜久雄は、半二郎が俊介と親子競演する『連獅子』を、舞台袖から食い入るように覗き見する。
観客席からは決して見ることのできない、歌舞伎という芸事のバックヤード、いわば“実”を覗き見せてくれるのも『国宝』の醍醐味。苛烈な稽古、白塗りに紅差す一瞬の緊張感、「引抜」の手際の見事さ、舞台に立つ役者だけが見ることを許される景色、そして役者それぞれが抱える人間としての苦悩と葛藤……。覗き見は蜜の味がするご馳走だ。
定式幕一枚を隔てた向こう側とこちら側、カメラは“虚”と“実”を自在に、スピーディー行き来する。観ているのは、虚実ないまぜ。歌舞伎ではなく、歌舞伎を演ずる歌舞伎役者の生きざまだ。
天涯孤独の身の上となり、“芸”への渇望だけで歌舞伎の世界に身を投じた喜久雄。喜久雄に“芸”はあるが、“血”はなかった。
一方、花形役者・半二郎の息子に生まれた俊介は、掛け替えのない“血”を持っていた。
無二の親友となり、ライバルとしても切磋琢磨する2人。だが、2人が並び立つことを、歌舞伎の伝統は許さなかった。
「俊坊の血、コップに入れてガブガブ飲みたいわ」と口走る喜久雄。「芸があるやないか」となだめる俊介。そして、息子ではなく、喜久雄の“芸”を自らの後継に選ぶ半二郎に、妻の幸子(寺島しのぶ)は「なぜ俊介ではないのか」と詰め寄る。
母親である幸子の俊介を思う気持ちは、痛いほどよくわかる。たとえ伝統芸能の家柄でなくても、原則、“血”は「守ってくれるもの」だからだ。
だが、“血”はなくとも、悪魔に魂を売る覚悟の精進で“芸”を追い求め、国宝として認められまでに駆け上る喜久雄の人生にパワーをもらう自分もいる。
