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筋肉は裏切らない「でも私は裏切られた」80歳の元ミス日本代表・谷 玉惠さんが描く【私小説・透明な軛#4】

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谷 玉惠

しらを切ってほしかった

アパートの二軒先に、たばこ屋兼雑貨屋があり、公衆電話があった。店の端にあるので幸い、声を聞かれる心配もない。受話器をにぎりしめ、夫に電話をかけた。
「今、中田美喜の家のそば。白状しなければ彼女に会いに行く」
切り口上で、威圧する。
「え? どこにいるんだ?」
狼狽しているのがわかる。
「彼女のアパートの隣のたばこ屋の公衆電話。白いアパートで2階の角の部屋に灯りがついている。さあ、言いなさい!」
有無を言わさない。
「彼女のとこには行かないでよ! なんでもないんだから……」
必死で懇願している。
「まだ嘘をつくの! それならヨットの短パンは何よ。言わないのなら女のところに行く」

今にも電話を切りそうな気配に、秀雄は動揺を隠せなかった。
「待ってよ。言うから」
あっけなく観念した。血の気がすっと引いた。知香は腹を据えた。
「いつから?」
「……春ごろから」
弱々しい声で、やっと答えている。
「やっぱり……」

頭の中が真っ白になった。どんなに強く迫ってもしらを切ってほしかった——それが本音だった。最後の望みはあっけなく崩れ落ちた。

彼の母親に電話しようと思いついた。なにかしないではいられなかった。
「お母さんに言ってやる」
「え? やめてよ。それはやめてよ!」

悲痛な声を残して、電話を切った。ブルブル震える手で、夫の実家に電話を入れた。現在は愛知県に住む両親。秀雄は二人兄弟の次男で、この優しい母が大好きだった。
「離婚します!」
一気に顛末を話し終わった。義母はたいそう驚き、懸命になだめた。
「まったく、あの子は何を考えているのか……すぐに電話をかけてその女性と別れるように言いますから、知香さん、どうか短気を起こさないで勘弁してくださいね。今、あの子は家にいるの?」
「はい。ぜひ電話してください」

母親の言葉は夫にとって何よりの薬だと思った。とりあえず怒ってもらいたかった。続けて、自分の姉にも電話をした。姉とは11歳年の差があるが、いつも知香のよき理解者だった。

一人で耐えることなど到底できない。この悪夢をみんなで共有してもらいたかった。

テレビで観る、夫の浮気相手と対決するシーン。そんな役が知香自身に回ってくるとは思いもしなかったが、現実に訪れたチャンスを逃す気はない。相手と会って、この事実をしっかり見つめておきたかった。

以前、もし夫が浮気をしたらどうするかを漠然と考えたことがあった。怒って離婚するか、あるいは太っ腹になって許してしまうかと。しかし浮気が現実となった今——。まんまと自分を騙し続けた夫の役者ぶりは敵ながら天晴れだった。「知香命」と従順だった夫の裏切りに、乾杯したいほどの悔しさがあった。

去るものは追わず、「女にくれてやる!」と腹を決めた。しかし、ただでは許さない。二人から慰謝料を取ってやろうと思いついた。そう思うと女に会う大義名分が立つ。

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