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筋肉は裏切らない「でも私は裏切られた」80歳の元ミス日本代表・谷 玉惠さんが描く【私小説・透明な軛#4】

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谷 玉惠

女との対峙

「さあ、一丁行くか!」
知香は自分に喝を入れて、外階段を上がった。上がりきった角が女の部屋だ。思い切って呼び鈴を押した。返事がない。さては夫から電話があって怖気づいたか。もう一度押した。そしてもう一度。やっと返事があった。
「どなたですか?」
「佐山ですが」
「……あ、すみません。今、シャワーを浴びているので、少し待ってください」

夫の妻だとわかったはずなのに、驚きもせず淡々とした口調だ。
「じゃ、ここで待っています」
そう答えたものの、外はまだ蒸し暑い。額にじっとり汗が出てきた。

人通りがまったくない。隣の部屋からテレビの音が聞こえる。懐メロの歌番組なのか、ピンクレディの「ウォンテッド」だ。もしかしたらずっと待たせるつもりかと疑い始めたころ、ドアが開いた。

長い髪を後ろで束ねた面長な女が顔を出した。白のTシャツに、ベージュの短パン。化粧気のない、見るからに地味な顔立ちの平凡な女。中肉中背だが、胸元はかなりのボリューム感がある。——これに夫は惹かれたのだろうか。知香は自分の貧しい胸を思い浮かべた。

「お待たせしました。どうぞ」
玄関というより靴脱ぎ場程度の入り口に立つと、すぐ脇の台所が丸見えのワンルームだった。物入れもなく、端に布団が無造作に折り畳まれている。6畳もなさそうだ。物珍しさが先にたった。

「汚くてすみません」
女が恐縮したように言う。——夫は今日この布団で一時を過ごしていたのだろうか。ゴールデンウィークには自分を追い出した後、ここで寝泊まりしていたのだろうか。次々に妄想が広がっていく。

「どうぞ」
女は四角いちゃぶ台の前に薄い座布団を勧めた。
「なにか冷たいものでもいかがですか?」
「いらないわ」

知香が座布団に座ると、正面に女が正座した。
「主人から聞きました。今日、偶然ヨットの写真を見つけたの。全く知らなかった」
逃げを打たれる前に、先手を打って知香は口を開いた。

「私が悪いんです。私から誘いました」
女が夫をかばうかのように言った。意外にも女は潔く認めた。夫からの誘いではなかったことに、知香は救われた気持ちになった。事前に夫から連絡が入ったのかと疑うほど、女は落ち着いて見えた。

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