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瞳みのるさん「どんな事態になっても一生自分から離れないもの」を探し続けて【後編】

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ゆうゆう編集部

ザ・タイガース解散後、自ら選んだ受験生活。そして慶應義塾大学から大学院、その後の教師としての日々……。波乱に満ちた人生の中で追い求めてきた「一生自分から離れないもの」とは──。前編に引き続き、瞳みのるさんに伺いました。

前編は瞳みのるさん「どんな事態になっても一生自分から離れないもの」を探し続けて【前編】
をお読みください。

PROFILE
瞳みのるさん
ひとみ・みのる●1946年、京都府生まれ。ザ・タイガースのドラマーとして67年にデビュー。71年のグループ解散後は、高校復学を経て慶應義塾大学文学部中国文学科へ。修士課程へ進み、教員免許を取得する。その後、慶應義塾高等学校教諭として中国語・漢文を担当し、2010年に退職。11年からはミュージシャンとしての活動を再開し、瞳みのる&二十二世紀バンドなどで精力的に活動中。
オフィシャルサイトhttps://hitomiminoru.com

教員をしながら語学学院に通って中国語会話をマスター

タイガース以降の瞳さんの人生の中で中国文学はとても大きな存在となる。出会いは定時制高校2年生のとき、選択科目として中国語が新たに加わったことによる。

「生まれて育ったのが京都なので、最初は平安文学に関心をもっていたのですが、平安時代に影響を与えた唐詩を研究しているうちに杜甫に出会い、中国文学に深く入っていきました」

大学に入って受けた中国語の授業では、教師の発音が悪く、これでは勉強にならないと思った。そこで大学の授業の他に日中学院という専門学校へも通った。

「日中学院で習ったおかげで発音についてはだいぶ自信がつきました。教員時代も青山の語学学院にずっと通いました」

メンバーと37年ぶりに再会。そしてザ・タイガース再結成

慶應高校の教員を最終的に33年間務め、定年前に辞めることになる。

「最後のほうは自分でやりたいようにできていたので楽しかったです。そういう意味では定年までいられたかなと思いますけれど、人にピリオドを打たれるのは嫌なので、早めに辞めたのです。65歳まで勤められたのですが」

55歳のときから次にやることを考え始めていた瞳さんは、おでん屋をやろうと真剣に思い、研究もする。

「2~3年研究しました。上海にお店を開こうと思っていたのです。ところが、イタリアンレストランをやっていた教え子が、若いのにもうヨレヨレになっている。『何でそんなにヨレヨレになっているの?』って聞いたら、昼間ランチやって、夜ディナー作ってもうクタクタだよと。そのうえ、上海では当局がうるさくて、管理がものすごく厳しい。そんなところから上海でおでん屋をやるというプランに疑問をもち始めたのです」

その後も教員を務めながら、次に何をやるべきかを考えた。

「タイガースをやめるまでは音楽をやってきた。そして大学に入ってからは文学をやってきた。だから音楽と文学が融合できるようなことをやることが、自分には一番ふさわしいと。おでん屋ではないだろうと」

音楽と文学の融合したもの、そんなことを考えていた2008年にタイガースのマネジャーであった中井国二さんが訪ねてくる。そこからタイガースのメンバーと37年ぶりに再会することとなる。考えてもみないことであった。

そして、2011年、沢田研二のライブとして、加橋かつみを除く元タイガースのメンバーで全国ツアーを行い、13年には44年ぶりにタイガースのオリジナルメンバー全員での全国ツアーを行った。

「タイガースを再結成していなくても、このことはやっていたと思います。音楽をやっていたときは音楽で一生終わるだろうと思っていました。文学のほうに来てからは文学で一生終わるだろうと思っていました。今度何をやるのかというときに、かつてやっていた音楽とこれまでやってきた文学が結びついて一つの方向に繋がった。嬉しいし、楽しいですね」

2016年10月には、瞳さんは現在の自身のバンドである「瞳みのる&二十二世紀バンド」で北京公演を成功させた。

「もちろん、北京の人たちはタイガースのことは知らないし、文化大革命の頃は開放されていませんでしたから、ザ・ビートルズもザ・ローリング・ストーンズもリアルタイムでは知らないわけです。でもメロディーというのは世界共通なのでよければ通じるものです」

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