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人生後半戦の『ターニングポイント』を前向きに!

82歳・伝説の女医が振り返る半生「50代は仕事を全うできなかった」多くの女性が共感するその深刻なワケとは?【天野惠子さんのターニングポイント#1】

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植田晴美

天野惠子さんは82歳の現役医師。現在も週2回、埼玉県の病院で診療を担当しています。実は、「女性外来」を日本に根付かせた伝説の医師として知られる天野さん。女性外来を立ち上げるきっかけとなったのは、激烈ともいえる更年期障害に悩まされ続けた体験でした。医師としてのターニングポイントについてお話を伺いました。

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お話を伺ったのは

天野惠子さん
1942年愛媛県生まれ。内科医。医学博士。静風荘病院特別顧問。日本性差医学・医療学会理事。NPO法人性差医療情報ネットワーク理事長。
1967年、東京大学医学部卒業。東京大学講師をへて94年、東京水産大学(現・東京海洋大学)保健管理センター教授・所長に就任。99年、日本心臓病学会のシンポジウムで性差医学の概念を日本ではじめて紹介し、注目を集める。2001年、鹿児島大学医学部附属病院の日本初の女性専用外来創設に尽力、2002年、千葉県立東金病院副院長となり(千葉県衛生研究所所長を兼任)、公立病院初の女性外来立ち上げに貢献、診療を担当した。09年より埼玉県・静風荘病院にて女性外来を担当。近著に『81歳、現役女医の転ばぬ先の知恵』(世界文化社刊)。3人の娘の母。

医師としての転機は、10年続いたつらい更年期体験だった

閉経前後の時期に、女性が悩まされるトラブルの代表選手が更年期障害。
顔や上半身だけがカーッと熱くのぼせるホットフラッシュ、めまい、頭痛、不眠、イライラ、鬱っぽくなる、慢性疲労、動悸、関節痛など、その症状は多岐に渡ります。

でも更年期を迎えた全員に不調が現れるわけではなく、その程度も人それぞれ。4割ぐらいの人はこれといった不調を感じないとも言われています。

「私は50歳での閉経後、肌荒れ、発汗、全身のしびれ、冷え、関節痛、ひどい疲労感などに10年間も悩まされ続けました。体の症状がつらいだけでなく、集中力、思考力も低下し、50代は1本の論文も書けなかったほど! もう頭が回らないのよ」
とご自身の更年期体験を話してくださったのは、82歳の今も現役内科医としてバリバリと働く天野惠子さんです。

更年期障害の現れ方に個人差があるとはいえ、10年も続く不調とは! 10年間! その年月を想像するだけで、つらくなってきます。

それでも“はじまり”があれば、いずれ“終わり”はやってくるもの。天野先生のつらい日々は突然終わりを迎えたそうです。

「60歳を目前にしたある日のことです。あれ、今日はいつもより体が軽いなあと感じて、“ああ、やっと終わったのだ”と気づきました。体がラクになっただけでなく、頭もクリアになって、意欲もよみがえってくる。まるでそれまでの長い不調が嘘だったみたいに、スッと長いトンネルを抜けることができたのです」

この長くつらい過酷な更年期体験が天野さんご自身の医師としての転機になりました。

「50歳から59歳まで、思うように仕事を全うできなかった、その思いが、私を『性差医療』に向かわせたのです」

「患者さんに『更年期は必ず終わりますから』って必ず言います。みなさんほっとしますね」

「女性のための医療を」と2001年、女性外来をスタート

「性差医療」という言葉を、初めて耳にする人も少なくないかもしれません。

「性差医療とは男性、女性の性差を考慮して診断や治療を行うことです」

天野さんは以前から性差医療を日本の医療現場でも取り入れるべきだと考え、啓発活動を地道に続けていました。

「性差医療は、1990年ごろからアメリカで研究が行われるようになったのですが、医学は長らく男性が基準で、女性医療は遅れていました。たとえば、同じ病気でも、男性のデータはあっても女性のデータはない、ということさえあったのです」

女性の医学=産婦人科、とイメージされていた時代から、それだけではない、たとえば循環器の分野でも、大きな男女差はある——。

ご自身の更年期体験を経て、より性差医療の重要性を痛感した天野さんにタイミングよく女性外来を行わないかとの打診が! そして2001年9月から千葉県県立東金病院で女性外来を担当する運びとなったのです。公立病院初の女性外来へ。

「多種多様の症状が現れ、個人差の大きい更年期障害は、男性医師にはなかなか理解されにくいものです。自分自身の課題として取り組む姿勢がなければ、治療効果に結びつけるのは難しいのではないか。

50代の10年間、更年期のつらさを誰よりも強く体験したから私だからこそ、女性の医療のためにできることがあるはずだと思ったのです。これが私の医師としての、第二の人生の始まりと言えるでしょう」

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