【べらぼう】十代将軍・徳川家治(眞島秀和)は毒殺されたのか?
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鷹橋 忍
家治の病は?
いたって健康な家治でしたが、天明6年(1786)8月に入ると病を発症しています。ドラマでは、お知保が作った醍醐(だいご/チーズのような食べ物)を家治が食したあとに体調が悪化し、あたかも醍醐に毒が盛られていたかのように描かれていましたが、実際はどうだったのでしょうか。
家治の体には浮腫(むくみ)の症状が現われていることから、脚気(かっけ)だったとみられています。当時は浮腫がみられると、たいていは脚気を患っていたといいます(以上、篠田達明『徳川将軍家十五代のカルテ』)。
江戸城では毎月15日に「月次御礼」という儀式が行なわれていました。家治は将軍就任以来、この儀式を欠席したことはありませんでしたが、この月は感冒を理由に出席を見合わせています。そのため、「将軍は重病に罹っているのかもしれない」との噂が飛び交いました。
治療の甲斐なく帰らぬ人に
家治の薬の調合は、奥医師(将軍や大奥の女性を診察する医師)の河野仙寿院(せんじゅいん)が行なっていました。ですが病状が改善されないため、8月15日より河野仙寿院に代って奥医師の大八木伝庵(おおやぎでんあん)が家治を診察しています。
さらに8月16日には、田沼意次が推薦した町医師の日向陶庵(ひゅうがとうあん)と若林敬順(けいじゅん)が新たに採用されました。日向陶庵と若林敬順は8月19日に奥医師に昇格し、この日から薬を調合しています。
ところが2人が調合した薬を服用すると、家治の病状は急激に悪化してしまいます。そのため8月20日に日向陶庵と若林敬順の2人は退けられ、家治の治療には再び大八木伝庵があたることになりました。ですが治療の甲斐なく、家治は8月25日に帰らぬ人となりました(幕府は「9月8日死去」と公表)。享年50歳でした。
意次が推薦した医師の投薬によって家治の容体が急変したことにより、意次への批判が巻き起こります。意次が日向陶庵と若林敬順を使って、家治を毒殺したのではないかという噂も流れました。
家治は田沼意次に毒殺されたのか?
結論からいうと、将軍・家治は田沼意次にとって最大の後ろ盾であり、毒殺する理由はないとみられています。家治毒殺の噂は、意次を失脚させるために、反田沼勢力が意図的に流したと考えられています(以上、鈴木由紀子『開国前夜―田沼時代の輝き―』)。
いずれにせよ、家治を失った意次は失脚。老中首座(老中の最上位)に抜擢された松平定信が寛政の改革に乗り出し、蔦重にも大きな影響を与えることになります。
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