【べらぼう】松平定信(井上祐貴)と一橋治済(生田斗真)はなぜもめているのか?
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鷹橋 忍
異例の老中就任
老中は特定の家から何代にもわたって就任するケースが多く見られ、定信の久松松平家のように、老中はもちろんのこと幕府の重職にも就いた者がいない家から老中が出るのは異例のことでした。また、定信のように幕府の役職に就いた経験もないままいきなり老中に、しかも首座に就任するのも極めて異例であり、定信の老中首座就任は異例づくめだったのです。
定信がこのような異例の抜擢を受けたのは、本人の能力はもちろんのこと、一橋治済と御三家の後ろ盾があったからだといいます(以上、藤田覚『松平定信 政治改革に挑んだ老中』)。そのため、一橋治済は御三家の当主とともに人事や政策などの重要事項の実施について、定信から意見を求められるようになりました。
絶対的な権力と権限を手に入れた松平定信は、ドラマでも描かれているように、改革を推し進めていきますが、やがて一橋治済との間に溝が生まれてきます。
老中を解任
寛政元年(1789)9月、一橋治済は松平定信に対し、治済の実兄である福井藩主・松平重富(しげとみ)の官位昇進を請願しました。ところ松平定信は、御三家の榎木孝明さんが演じる尾張藩主・徳川宗睦(むねちか)と、奥野瑛太さんが演じる水戸藩主・徳川治保(はるもり)とともに、これに反対しています。
また、十一代将軍・徳川家斉は実父・治済を、将軍経験者でもないのに大御所(前将軍)として江戸城の西丸に迎えたいと望みました。ですが、これにも松平定信は反対しています(藤田覚『松平定信 政治改革に挑んだ老中』)。これは「大御所問題」と呼ばれています。
松平定信は、寛政5年(1793)年7月、依願辞任の形をとって将軍補佐と老中職を解任されます。老中の在職期間は6年でした。松平定信の解任の背景には上記の大御所問題と、以下に述べる「尊号一件(そんごういっけん)」があったと考えられています(福留真紀『徳川将軍の側近たち』)。
尊号一件とは?
尊号一件とは、寛政元年(1789)に起きた、光格(こうかく)天皇(1771~1840、在位1780~1817)が実父の閑院宮典仁親王(かんいんのみやすけひとしんのう)に、太上(だじょう)天皇(譲位した後の天皇)の尊号を贈ろうとしたところ幕府に反対され、朝廷と幕府の関係が一時悪化した事件です。「尊号事件」とも呼ばれます。
ドラマの第37回で、松平定信と一橋治済の間で話されていたのはこの件です。
光格天皇は安永7年(1779)に、先の天皇である後桃園(ごももぞの)天皇が急死した際に跡継ぎがいなかったため、急遽、後桃園天皇の養子となり、即位しました。
光格天皇の実父・典仁親王は天皇になっていないため、太上天皇の称号を贈るのはおかしいと、松平定信は強く反対したのです。これは将軍経験者でない実父・一橋治済を大御所にしたいと望んだ十一代将軍・徳川家斉への牽制だったともいわれます。
徳川家斉ももう21歳の青年に成長していたこともあり、意に沿わない松平定信は解任されたのではないかとみられています(福留真紀『徳川将軍の側近たち』)。
ドラマの松平定信と一橋治済は、これからどうなっていくのでしょうか。
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