【べらぼう】強烈なキャラが登場! 葛飾北斎(くっきー!)と曲亭馬琴(津田健次郎)の生涯は?
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鷹橋 忍
作家・曲亭馬琴
曲亭馬琴は、『南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)』などを著わした作家です。執筆から得る収入により、人並みの生活を保てた最初の作家ともいわれます。
馬琴は明和4年(1767)6月9日に、旗本・松平信成(のぶなり)の用人を務める滝沢興義(おきよし)の子として、江戸・深川で生まれました。寛延3年(1750)生まれの蔦重より17歳年下となります。
安永4年(1775)、馬琴が9歳の時に父・興義が急死したため、父と同じく松平家に仕えていた長兄・興旨(おきむね、のちの羅文/らぶん)が17歳で家督を継ぎました。ところが翌安永5年(1776)、興旨は松平家を去り、浪人となってしまいます。そのため、馬琴が10歳で家督を継ぎ、松平信成の孫・八十五郎(やそごろう)に仕えることになりました。しかし、愚鈍でわがままな幼君・八十五郎の相手を続けることに嫌気が差し、安永9年(1780)14歳の時に出奔(しゅっぽん)し、各地を流浪します。
山東京伝のゴーストライター?
寛政2年(1790)24歳の時に、山東京伝を訪ねて入門を請いました。山東京伝は「戯作は教えようがない」として弟子入りを断わりますが、「気軽に話にいらっしゃい。何か書いたら、見るだけは見ましょう」と応じたといいます。この山東京伝との出会いにより、馬琴の戯作者としての道が開いていきます。
翌寛政3年(1791)、山東京伝の斡旋により、黄表紙『廿日余四十両(はっかあまりしじゅうりょう)尽用而二分狂言(つかいはたしてにぶきょうげん)』が、「京伝門人 大栄山人(だいえいさんじん)」の名義で、和泉屋市兵衛から出版されました。山東京伝が和泉屋市兵衛に渡すはずの新作が書けなかったため、代わりに馬琴の原稿を斡旋したと考えられています(佐藤至子『蔦屋重三郎の時代 狂歌・戯作・浮世絵の12人』)。
この年、大洪水に見舞われ、深川の馬琴の住居も住めないような状況に置かれたようです。馬琴は山東京伝の家に寄寓し、山東京伝の代作をしたといいます(麻生磯次『滝沢馬琴』)。
蔦重の耕書堂で働く
寛政4年(1792)の春、馬琴は山東京伝の勧めにより、蔦重の耕書堂に住み込みで働くことになります。ドラマでも、馬琴が店で働く姿が描かれていました。
蔦重は寛政5年(1793)から、馬琴の黄表紙や読本を出版していきます。寛政5年に出版された『御茶漬十二因縁(おちゃづけじゅうにいんえん)』に、はじめて「曲亭馬琴」と署名しています(麻生磯次『滝沢馬琴』)。
同年7月下旬、馬琴は耕書堂を辞め、飯田町中坂下の履物商・会田家に婿入りしました。2年後の寛政7年(1795)、義母の死を機に商売から退き、執筆に打ち込んでいきます。
馬琴は、葛飾北斎とコンビを組んだ読本の名作『椿説弓張月』のヒットにより、読本作家としての地位を確かなものにしました。
文化11年(1814)48歳の時から、代表作となる読本『南総里見八犬伝』の刊行を開始し、失明の不幸に見舞われながらも、長男の妻の力を借りて、天保12年(1841)に完成させます。馬琴が75歳の時のことです。その後も馬琴は、嘉永元年(1848)に82歳でこの世を去るまで、筆を振るい続けるのでした。
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