【べらぼう】蔦重(横浜流星)らがのめり込んだ「源内生存説」の真相は?
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鷹橋 忍
相良に残る源内の伝承
源内は相良で、医者として過ごしたという伝承が残っています。また、「土用丑の日に鰻を食べると、中風にかからない」という有名な民間の俗説を喧伝したのは、相良城下の源内であったと、なかり昔から伝わっているといいます(以上、川原崎次郎『平賀源内と相良凧』)。
牧之原市前浜には源内が隠棲していたと伝わる源内屋敷址があり、同市福岡の日蓮宗浄心寺には源内の墓とされる墓所が存在しています。
相良凧は源内が考案した?
相良凧はその名の通り、牧之原市相良の伝統的な凧です。ドラマにも登場したこの相良凧は、江戸時代の中頃、相良に来た「長崎の某」が伝授したと伝承され、その「長崎の某」こそが平賀源内だと伝えられています。
紙鳶(しえん)とは凧のことですが、源内は「紙鳶堂」の雅号を称するほど凧好きだったといい、二度の長崎留学も経験しているので、あり得ないことはないのかもしれません。
相良凧は男子の出生を祝って揚げられたもので、糸はガラスの破片の粉を上質の糊に練り込んだ「ビードロ糸」を用いています。ビードロとは、源内が長崎で覚えたガラスを意味するオランダ語で、相良では今でも慣用句になっているといいます(川原崎次郎『平賀源内と相良凧』)。
源内はスーパースター
前述した水谷不倒『平賀源内』によれば、田沼意次が失脚すると、源内は隠れるところがなくなったため出羽庄内(山形県)へ向かい、生涯を終えました。庄内には源内の墓と思われる石碑が一基あることも記されています。
新戸雅章『平賀源内 「非常の人」の生涯』では、源内の生存説に関して、「英雄の死を惜しむ民衆の想像力が生み出した幻に過ぎないだろう」と述べ、源義経や明智光秀、真田幸村などの生存伝説と同種のものであり、「源内がそれだけスーパースターだった証である」と結んでいます。
ドラマの平賀源内にはできるなら生き延びていて欲しいですね。
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