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ザ・タイガース誕生秘話。「あそこで3人が出会わなければ…」【79歳・森本太郎さんのターニングポイント#1】

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藤岡眞澄

グループサウンズの黄金期を牽引したザ・タイガース。その中で森本太郎さんは、仲間から厚く信頼される存在でした。当時のGSでは珍しい自作曲「青い鳥」は今も多くのファンに親しまれています。衝撃的な成功の日々と解散、音楽プロデューサーの活躍など、森本さんの人生のターニングポイントについて伺いました。第1回は、ザ・タイガース結成前の秘話!

森本太郎さん Profile

森本太郎●ザ・タイガースの元メンバー 
ギタリスト・作詞家・作曲家・音楽プロデューサー
1946年、京都生まれ。1967年に「ザ・タイガース」のギタリストとして『僕のマリー/こっちを向いて』でデビュー。ザ・タイガースの8枚目のシングルに収録された『青い鳥』では作詞作曲を担当し、自作の一曲として高く評価されている。解散後は、「タローとアルファベッツ」「森本タローとスーパースター」などのバンド活動やソロ活動、作詞作曲、音楽プロデュース業を精力的に展開。1981年のタイガース再結成にも参加し、現在も幅広く音楽活動を続けている。愛称は「タロー」。
森本太郎 公式サイト

あの河原町が、「ザ・タイガース」が始まった場所だと思います

——京都生まれ、京都育ちの森本さんが音楽に興味を持ったきっかけは何でしたか?

僕の家は昔で言えば洛中で、朱雀大路の近く。かつての京都の中心にあたる場所にありました。

ピー(瞳みのるさん)とは家が近くて、仁和小学校3年、4年の同級生。北中(北野中学校)に上がって、ピーとサリー(岸部おさみ/一徳さん)が同級生で仲良くなったけど、僕は別のクラスでサリーのことは知らなかった。

その当時、僕の2つ違いの姉がプレスリーだとかレイ・チャールズ、ニール・セダカやポール・アンカだとか、洋楽が好きだったんです。その姉が「タロちゃん、これいいよ」って、気に入った曲を僕にすぐ聞かせようとしてくれた。音楽好きは姉の影響じゃないかな、と思っています。姉とは、当時もいまも仲よくしています。

——別々の高校に進んだ3人が高1の時(1963年)、河原町でばったり出会った。お互い、すぐに気づきましたか?

日にちは忘れたけれど、時間は多分、夕方でした。河原町四条から上がって来た2人と、僕は三条から下って行った。そこでピーと出会って、隣にいたサリーを紹介されたんです、「同じ北中だよ」って。

あの河原町が、「ザ・タイガース」が始まった場所だと思います。あそこで出会わなければ、タイガースは生まれなかった。

——そこから「バンドを組もう」ということになるわけですね。

再会してからは毎週のように土曜日に3人で待ち合わせして、河原町にあった「田園」に踊りに行きましたね。

「田園」は、今でいえば“クラブ”みたいな場所。ダンスミュージックはレコードではなくて、バンドが入っていたんです。演奏される曲に当時流行っていたロックンロールが多くて、すごく楽しかった。

それと、もう一つ。ピーと岸部の中学同級生だった坂田(壽男さん/「京の名工」受称者)が「Back Beets(バックビーツ)」というエレキバンドを組んでいて、練習をよく見に行っていたことがバンドを組んだ一番のきっかけだったんじゃないかと僕は思っています。 

——そこに、瞳さんと高校同級生だった加橋かつみさんが加わることになって、1965年に「サリーとプレイボーイズ」を結成したんですね。

ある日、ピーがトッポ(加橋さん)を連れてきて、「田園」にも遊びに来るようになって、4人でバンドを組もうということになったんです。

当時、僕の7歳上の姉が日本舞踊の名取だったこともあって、家の2階にあった稽古場の、稽古場は傷つけちゃいけないんで、一段下がった和室でよく練習していました。

と言っても、街中なので大きな音を出せない。ピーが分厚い少年漫画雑誌を持って来て、ドラム代わりに叩いていたのを思い出します。

ドラムが叩きたいときは親戚が経営していた運送会社の倉庫とか、知り合いのお寺とかに頼み込んで……。当時はリハーサルスタジオなんかない時代でしたからね。

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