【豊臣兄弟!】豊臣秀吉(池松壮亮)と秀長(仲野太賀)は異父兄弟? 姉(宮澤エマ)、妹(倉沢杏菜)との関係は?
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鷹橋 忍
秀長の父
秀長の父に関しては、諸説があります。順を追って、ご紹介しましょう。
徳川将軍家旗本・土屋知貞(ともさだ)がまとめた「太閤素生記」(『新訂増補 史籍集覧 第23冊』所収)によれば、秀長の母・天瑞寺殿(なか)は、中々村の住人である木下弥右衛門に嫁ぎました。
弥右衛門は信長の父・織田信秀に足軽として仕えていましたが、負傷したため、中々村で百姓になったといいます。
天瑞寺殿(なか)と弥右衛門の間には、瑞龍院殿(とも)と秀吉の一女一男が誕生しましたが、弥右衛門は天文12年(1543)に亡くなってしまいます。
夫と死別した天瑞寺殿(なか)は、中々村出身で織田信秀に仕えていた筑阿弥(ちくあみ/竹阿弥とも)と再婚し、秀長と南明院殿(あさひ)が生まれたことが記されています。そのため、秀吉と秀長は異父同母兄弟とされてきました。
ですが、秀長の生年は弥右衛門が死去する前の天文9年(1540)であり、妹の南明院殿(あさひ)も弥右衛門が死去した天文12年(1543)に生まれたとされることなどから、秀長と南明院殿(あさひ)も弥右衛門の子であり、秀長と秀吉は同父同母の兄弟とみてもよいとする説があります(小和田哲男『豊臣秀長 秀吉と泰平の世をめざした、もう一人の天下人』)。
また、筑阿弥は弥右衛門の出家名で、二人は同一人物とみることもできるともいいます(黒田基樹『羽柴秀長の生涯 秀吉を支えた「補佐役」の実像』)。
その他、天瑞寺殿(なか)は弥右衛門の存命中に彼と離縁し、筑阿弥と再婚したとの伝承も存在し、やはり秀長と秀吉は異父兄弟とみる説もありますが(福田千鶴『豊臣家の女たち』)、ここではとりあえず、同父同母の兄弟とする説を採ります。秀長の父に関して、今後、ドラマで描かれるのでしょうか。
秀吉は信長の草履を温めていない?
親が亡くなった時、秀吉は7歳、秀長は4歳でした。残された男子はどちらも幼少のため、百姓を営むのは困難だったと思われます。
黒田基樹『羽柴秀長の生涯 秀吉を支えた「補佐役」の実像』によれば、耕地は村の有力者や親類に預けられ、秀長たちの一家は他の百姓家で奉公するようになったとみられています。
秀吉は10歳の時に家を出て、各地を廻って奉公し、永禄元年(1558)22歳の時に尾張国に戻ったとされます。
そして、清須城(愛知県清須市)の城主となっていた織田信長に、小者(こもの)として仕えたとみなされるとしています。小者とは「雑用を仕事とする者」のことです。
草履取り(主君の出立時に草履を揃えて出すこと)も小者の役目の一つですが、秀吉が信長の草履を懐で温めたという有名な逸話は、創作であると考えられています(呉座勇一『真説 豊臣兄弟とその一族』)。
その後、秀吉は織田家内部で頭角を現わし、出世の階段を駆け上がっていくことになります。
秀長も信長の家臣に
一方、秀長については史料がないため、この頃の彼がどのような生活を送っていたのかは定かでありません。
やがて秀長も中々村を出て、信長に仕えるようになります。その時期は不明ですが、秀吉が「木下藤吉郎」と称するようになった永禄5年(1562)以降ではないかと推定されています。
織田家の家臣となった秀長は、「木下小一郎長秀」を称します。実名「長秀」の「長」は、信長から与えられた偏諱(へんき/実名の一字)だと考えられています(以上、柴裕之『秀吉と秀長「豊臣兄弟」の天下一統』)。
秀吉、秀長兄弟による奇跡の下克上の幕が開きました。
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