【豊臣兄弟!】竹中半兵衛(菅田将暉)は“婦人のごとし”? 半兵衛と黒田官兵衛(倉悠貴)はどんな人物か
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鷹橋 忍
2026年NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」。当時の文化や時代背景、登場人物について、戦国武将や城、水軍などに詳しい作家・鷹橋 忍さんが深掘りし、ドラマを見るのがもっと楽しくなるような記事を月1回お届けします。今回のテーマは、竹中半兵衛(はんべえ)と黒田官兵衛(かんべえ)です。
大河ドラマ『豊臣兄弟!』の第21回「風雲!竹田城」では、菅田将暉さんが演じる竹中半兵衛に加えて、倉悠貴さんが演じる黒田官兵衛も登場しました。今回は、この「二兵衛」「両兵衛」とも称される、竹中半兵衛と黒田官兵衛の二人を取り上げたいと思います。
竹中半兵衛とその妻は?
竹中半兵衛は、美濃岩手城(岐阜県不破郡垂井町)の城主・竹中重元(しげもと)の子として、天文13年(1544)に生まれました(柴裕之編著『図説 豊臣秀吉』所収 小林雄一郎「第五章 秀吉を支えた一族と家臣」)。
天文9年(1540)生まれとされる秀長より4歳年下、天文6年(1537)に生まれたとされる秀吉(天文5年生まれ説あり)より7歳年下、天文15年(1546)生まれの黒田官兵衛より2歳年上となります。
「半兵衛」の名で知られていますが、これは通称です。実名は、はじめ「重虎(しげとら)」、のちに「重治(しげはる)」となります(ここでは半兵衛と表記で統一)。妻は、西美濃三人衆の一人である安藤守就(もりなり)の娘です。
打見たる処は婦人のごとし
竹中半兵衛に関しては史料が少なく、その実態はあまりわかっていませんが、江戸時代中期の儒学者・湯浅常山(ゆあさじょうざん)が著した雑史随談集『常山紀談(じょうざんきだん)』では、半兵衛を「謀略ある人なれども、打見たる処は婦人のごとし」と称しています。「武略に優れているが、一見、女性のように穏やかだ」という意味です。
また、江戸時代初期の儒学者で医者の小瀬甫庵(おぜほあん)が記した秀吉の伝記物語『太閤記』には、14、5歳の頃から武略の知恵が人よりも優れていたこと、軍略の研究以外は雑事と考え、戦を勝利に導くことが自分の務めと心得ていたこと、半兵衛が先陣、あるいは、しんがりを務めていると、軍の人々は皆、なんとなく安心したことなどが記されています(以上、現代語訳は吉田豊訳『太閤記(四)』参照)。
信長の命で秀吉の下に
ドラマでも描かれていたように、竹中半兵衛は美濃斎藤氏に仕えていました。永禄7年(1564)には、主君・斎藤氏の居城である稲葉山城(岐阜城/岐阜市)を占拠したと伝わります。城は後に、濱田龍臣さんが演じる斎藤龍興(たつおき)に返却しますが、斎藤氏は永禄10年(1567)に滅亡します。
美濃国が織田信長の支配下に入ると、半兵衛は信長に仕えます。そして、信長の命により、秀吉の下に配属されました(『寛政重修諸家譜』)。
秀吉の戦略や戦術に、半兵衛がどのように関わったのかもよくわかっていませんが、元亀元年(1570)に浅井家の家臣・堀秀村(ひでむら)を調略したのは、半兵衛だとみられています(菊地浩之『豊臣家臣団の系図』)。
黒田官兵衛との出会い
天正5年(1577)、信長から中国地方攻略の司令官に抜擢された秀吉に従い、半兵衛も播磨国(兵庫県南西部)へ出陣しました。
播磨国に入った秀吉は、織田方であった小寺孝高(黒田官兵衛・孝高・如水/ここでは官兵衛で統一)から、居城の姫路城(姫路市)を提供されます。半兵衛および秀吉が官兵衛と出会ったのは、この頃だといいます(柴裕之編著『図説 豊臣秀吉』所収 小林雄一郎「第五章 秀吉を支えた一族と家臣」)。
同年11月、秀吉は半兵衛と官兵衛の軍勢を、織田と敵対する毛利方に属した播磨福原城(佐用城とも/兵庫県佐用郡佐用町)に差し向け、攻略させています。
このように半兵衛と官兵衛は、二人で共に任務を遂行することが多かったというイメージがありますが、実際にはごく稀だったといいます(諏訪勝則『黒田官兵衛「天下を狙った軍師」の実像』)。
軍師という役職は存在しなかった?
半兵衛は官兵衛とともに、秀吉の「軍師」として知られています。ですが、この時代に軍師という役職は存在しませんでした。軍師とは後世の呼称なのです(柴裕之編著『図説 豊臣秀吉』所収 小林雄一郎「第五章 秀吉を支えた一族と家臣」)。
半兵衛の仕事は、秀吉の指揮下において、自分の兵を動かすことだったといいます(谷口克広『歴史群像デジタルアーカイブス<豊臣秀吉と戦国時代>豊臣軍団武将列伝 竹中半兵衛 中川清秀』)。
一方、官兵衛も、最高指揮官である秀吉から、現地の指揮権全般を任された優秀な司令官という立場にあったと考えられ、軍事に限定したとしても、秀吉に助言したと断言できる事例は確認できません(諏訪勝則『黒田官兵衛「天下を狙った軍師」の実像』)。
