山本譲二さんに聞く、病と向き合って生きる方法。「情熱があれば大丈夫。俺はそうやって生きてきました」
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ゆうゆう編集部
大腸がんの告知を受けて、夢も希望も失いかけた
その右耳の腫瘍が見つかってからちょうど10年後の19年5月、今度は大腸がんが見つかった。前年の10月ぐらいから脇腹の痛みなどの症状はあったものの、風邪だろうと高をくくっていた。結果、告知を受けたときには7センチにもなっていた。
「俺はけっこう楽観主義なのですが、言われた瞬間、夢も希望も情熱もなくなってしまった。『お父さんは太く短く生きるからね』なんて娘たちにも言っていたのですが、あれは強がりだったと気づきました。入院中願うことは、ただひたすら『生きたい、生かしてください』だけだったんです。告知された人のあの気持ちというのは、告知されたことのある人にしかわからないと思いますね」
親友の吉幾三さんが紹介してくれた病院で手術は無事にすんだ。だが、病理検査の結果が出るまでに3週間を要し、がんの進行程度はどのくらいなのか、術後に化学療法を行うか否かがなかなかわからず、落ち着かなかった。というのも、抗がん剤治療を受けて体力を落としていく友人、知人をたくさん見てきたからだった。もしも抗がん剤治療をすることになれば歌手は続けられない。そんな思いを抱えてその日を迎えたのだ。検査の画像を見た医師はこう告げた。
「ステージはⅡのaでした。抗がん剤は必要ありません」
その瞬間、隣にいた妻の悦子さんが、文字どおりその場に泣き崩れた。
「いやあ、抱き起こすときに『悦ちゃん、ごめんな、ありがとな』、もうそれしかなかったですよ。いつも気丈に明るく振る舞って、心配している素振りなどこれっぽっちも見せませんでしたから」
実は山本さんが耳を患った翌年、悦子さん自身に乳がんが見つかり、手術を受けていた。幸い早期発見で乳房の大部分を温存できたが、その後5年間のホルモン療法は副作用も大きく苦しんだという。自身が苦しんだ分、夫にはそんな思いを味わわせたくなかったのだろう。
50年苦楽を共にしてきた二人。「出会ったときの彼女は後光が差して見えたほどかわいかった」と、今も臆面もなく語る山本さんにとって、悦子さんは「心の杖」だという。
「『夫婦は赤の他人だ』なんて世間ではよくいいますけど、俺その言葉が大嫌いでね。何を言ってんだって。妻は一番近い身内なんだって。あいつがいないと俺はもうダメですから」