「本当は沢田をいれたくなかった…」その理由とは!?ザ・タイガース結成までの意外な物語【79歳・瞳みのるさんのターニングポイント#1】
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藤岡眞澄
あの時代を知る人なら、きっと胸が熱くなる。グループサウンズの黄金期を駆け抜けた「ザ・タイガース」。その中で、仲間をまとめ、前へ前へと歩いてきたのが、瞳みのるさんでした。解散後、彼が選んだのは音楽とは異なる道——。いくつもの決断が、瞳さんの人生を形づくっています。第1回は、すべての始まりとなった、ザ・タイガース結成前夜からお話を伺います。
瞳みのるさん Profile
瞳みのる●ひとみ・みのる
1946年、京都府生まれ。ザ・タイガースのドラマーとして67年にデビュー。71年のグループ解散後は、高校復学を経て慶應義塾大学文学部中国文学科へ。修士課程へ進み、教員免許を取得する。その後、慶應義塾高等学校教諭として中国語・漢文を担当し、2010年に退職。11年からはミュージシャンとしての活動を再開し、瞳みのる&二十二世紀バンドなどで精力的に活動中。
瞳みのるオフィシャルサイト
瞳みのるオフィシャルブログ
新聞配達をしていた、中学生のころ
——メンバー5人全員が京都生まれの「ザ・タイガース」。瞳さんは離れもあるような街中のお屋敷で、乳母日傘の幼少期を過ごされたと伺っています。
僕が生まれた頃は父の洋傘問屋の商売がうまくいっていて、体が丈夫でなかった母が僕のために乳母を雇っていたんです。
その母が、僕が2歳のときに30歳の若さで亡くなってからも、なついていた乳母のおかげで寂しさを感じずに育ちました。実は、この乳母が僕の「ピー」というニックネームの名付け親。キューピー人形みたいに目が大きくて、頭が大きいから、だったらしいです。
でも、小学校に上がったころから父の商売が傾き始めて、乳母がいなくなって、父の再婚でステップマザー(継母)が現れて……。
——突然、生活環境が激変するわけですね。
僕には姉と兄がいるんですが、継母にとってはこの3人を育てる義理はない。しかも、妹が3人生まれてからは、衣類や食べ物などすべてにおいて差別されました。
給食費や学用品費を出してもらえずに、学校に行きたくなくなったこともあったけれど、小学5年生になって、朝夕の新聞配達で生計が立てられるようになったときはうれしかった。
北中(京都市立北野中学校)で岸部(おさみ/一徳さん)と仲良くなったころは、早朝に牛乳配達をしてから学校に通っていました。
——その経験が、自立しなくては、という瞳さんの生き方の根源になった部分がありそうですね。
本来は自立するような人間ではないんです。でも、義理の母親にいろいろやってもらえなかったから、自分でやらなきゃいけない、自分のことは自分で、という強い気持ちが芽生えたのは確かです。
だから、今では逆に、義理の母に感謝しております。
——そんな少年期に音楽に興味を持ったきっかけは何でしたか?
3歳上の兄が童謡や唱歌を歌うのが好きだったんです。日常に歌があった。だから、歌好きは兄の影響が大きかったと思います。
僕には産みの母の記憶が全くないんですが、55歳のときに、姉から母の写真を初めて見せてもらったんです。そうしたら、35歳で亡くなった兄の面影が母によく似ていて。
実は、母は宝塚(歌劇団)に入りたかった人なんです。兄の唱歌好きは母から受け継いだもの。僕が音楽に興味を持ったのも、母が遺してくれたものだと思います。
