長野智子さん、母ロスの悲しみを乗り越えて思うこと「亡くなってからのほうが母が近くにいる気がします」
一度離れたことでその後ずっと仲よしに
14歳年上の兄はすでに家を離れていたため、父を亡くして以降、長野さんは敏子さんとその母との3人暮らし。高校生の頃には「早く私が働いて安定収入を得なきゃ」と考えるようになっていたという。英語が好きで、将来は英語の教師になろうと心に決めた。
そんな、高校生まで「いい子」だった長野さんの「反抗期」は、大学生になってから訪れた。アルバイトでラジオ番組のDJを始めるようになったのがきっかけだ。夜遅く帰るようになり母の思いどおりにはいかなくなった娘を、心配のあまり口うるさく注意するようになった。
「ある日、イライラしてしまって、『ここまで大きくしてくれて感謝しているけど、ママにはママの人生、私には私の人生があるんだから、あとは好きな人を見つけて再婚でもして幸せになって』と言ったら、ものすごい勢いでほっぺたを引っぱたかれたんです。『私がいかにパパのことを愛しているか、あなたは何もわかっていない』って、それはもう恐ろしいほどの衝撃で。本当に申し訳ないことをしたと思いました」
母娘が肩寄せ合って暮らす長い歳月の間には、そんなふうに母から離れようとした時期もあった。実際、テレビ局のアナウンサーになってからは、あまりの忙しさに実家から通うのが難しくなり、長野さんは黙って家を探し、ひとり暮らしを始めた。
「母は悲しそうでしたね。今思っても胸が痛むぐらい。ただそこで距離を置いたことによって、ぐっと関係がよくなったのも確かです。母も覚悟を決めたようですし、私は私で母がこれまでどれぐらいのことをやってくれていたかを身をもって知った。そこからは本当にけんかもしないで、ずっと死ぬまで仲よしでいられましたから」
敏子さんが還暦を迎えたときは、かつて一家で住んだ米国ニューヨークを訪れた。そのときに友達の紹介で、当時住んでいた家を探してくれたのが現在の夫だった。
「母のほうが先に気に入ってしまって(笑)。『天国のパパが連れてきてくれたのよ』と言っていました」