紫式部(吉高由里子)の娘・賢子(かたこ/南沙良)は「光る女君」になった?多くの貴公子に恋した生涯を紹介【光る君へ】
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鷹橋 忍
東宮権大進・高階成章との結婚
長元9年(1036)年、後一条天皇が崩御し、後朱雀天皇(親仁親王の父)が即位すると、翌長暦元年(1037)、親仁親王が13歳で東宮(皇太子)となりました。
この頃、賢子は、東宮権大進の高階成章と結婚しています。
二人の出会いや、いつ結婚したのかは正確にはわかっていません。
二人の間には、翌長暦2年(1038)に、為家という男子が誕生したとみられています(山本淳子訳注『紫式部日記 現代語訳付き』)。
キャリアを築く
寛徳2年(1045)、親仁親王が父・後朱雀天皇から譲位を受け、後冷泉天皇となると、典侍に任ぜられ、従三位に叙せられました。
これは中下貴族層の娘としては、キャリアのトップを極めたことになるといいます(服藤早苗 東海林亜矢子『紫式部を創った王朝人たち——家族、主・同僚、ライバル』所収 栗山圭子「第十三章 天皇乳母としての大弐三位——母を超えた娘」)。
賢子は、よき乳母であったのでしょう。
長寿を保つ
天喜2年(1054)、夫の高階成章が大宰大弐に任じられると、賢子は夫の役職にちなみ、「大弐三位」と称されるようになりました。
成章は天喜6年(1058)正月に、大宰府にて、69歳で死去します。
賢子が、60歳ぐらいの時のことです。
夫亡き後も、賢子は20年以上、健在であったようです。
賢子の正確な没年は不明ですが、永保2年(1082)に、84歳くらいで亡くなったともいわれます。
当時としては大変な長寿を保ったことになります。
ドラマの後も、賢子には長い人生が残されているのです。
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