【べらぼう】瀬川(小芝風花)の身請け、うつせみ(小野花梨)の足抜け…吉原の女郎の境遇とは?
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鷹橋 忍
休日は年にたった2回!
お休みも極端に少なく、ドラマでも触れていましたが、完全に休日となるのは元日と7月13日の年に2回だけでした。ですので、女郎たちは楼主に自分の揚代を、自分で支払って休みをとる「身揚り」(みあがり)という方法で休日を得ていました。身揚りをすれば、その分借金が増え、年季は遠ざかります。
過酷な労働がたたってか、労咳(ろうがい/肺結核)や性病などに感染し、年季が明けないうちに病死してしまう女郎も大勢、存在しました。
無事に年季明けまで生き延びても、帰る場所もなく吉原に留まり、女郎たちの監督役である「遣手」(やりて)となったり、女郎を続けたりする女性もいました。小芝風花さんが演じる瀬川(花の井)のように、身請けされる女郎はごく僅かだったのです。
「ありんす」「わっち」は吉原独自の言葉
吉原では「ありんす」や「わっち」(私)など、独自の「廓言葉」(くるわことば、さとことば)が発達していました。廓言葉は「ありんす言葉」とも通称され、吉原は「ありんす国」とも呼ばれています。『べらぼう』でも瀬川(花の井)が、廓言葉を口にしていましたね。
吉原ではなぜ、廓言葉が使われたのでしょうか。全国から女郎が集まる吉原では、各自がそれぞれの国の言葉を使うと話が通じにくいこともあっため、吉原共通の廓言葉がつくられました。また、お客の夢を壊さないため、女郎がもともと使っていた方言を隠すためだともされます。
廓言葉は女郎以外の奉公人、および「切見世」(最下級の遊女屋)の女郎は使わないのが、暗黙のルールだったといいます(安藤優一郎監修『江戸の色町 遊女と吉原の歴史 江戸文化から見た吉原と遊女の生活』)。
女郎にとっての「大門」(おおもん)は…
「お歯黒溝」(はぐろどぶ)と俗称される堀にぐるりと囲まれた吉原は、非常時用の刎ね板橋はあるものの(小野武雄『吉原と島原』)、基本的には「大門」を唯一の出入り口とします。
女郎は、この大門の外へ出るのを禁じられていました。大門を入って右手には「会所」(四郎兵衛会所)があり、主に女郎の逃亡を監視していました。
男性は、吉原を自由に行き来できました。ですが、女性は女郎でなくても、あらかじめ会所に用向きを伝えて、「切手」(通行証)を発行してもらい、大門を出入りする際に提示しなければなりませんでした(安藤優一郎監修『江戸の色町 遊女と吉原の歴史 江戸文化から見た吉原と遊女の生活』)。
このように厳重に警備されているにもかかわらず、ドラマの小田新之助とうつせみのように、足抜けが行なわれることもしばしばあったといいます。ですが、大門を抜けることができたとしてもすぐさま追っ手に捕まり、ほとんどが失敗に終わったと考えられています。
ドラマの中だけでも、蔦重のべらぼうな夢が叶い、女郎たちがいい思い出をたくさん抱えて大門を出て行けるようになってほしいものです。
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