“無いこと”を力に変えて——ダウン症の書家・金澤翔子さんの書道の奇跡
世界各地で個展や公演を開催する、ダウン症の書家 金澤翔子さんが表現する書。翔子さんを世界の舞台で活躍する書家へと導いた、母であり書の師匠である、金澤泰子さんの文。母と子が奏でる、筆とペンの力をじっくりとお楽しみください。
三昧(さんまい)の来方(きかた)
「努力なしに、やすやすと成し遂げたものが大成功である」と、悟り「三昧の境地」についてヨガの本に書いてあった。
一つの目標に向かい、力の限りキリキリと頑張ることはプレッシャーも大きく、他者を傷つけることも多いので、大成功とは言わない。
翔子誕生以来、十数年間は何をしても最下位でオロオロしていて、私は嘆きながら翔子の行く末を案じていた。四十年前という時代背景の中で、知的障害者が将来に希望など持てる筈もなかった。
そんな翔子に、二十歳の個展から突然、大きな幸運が数限りなく舞い降り始めた。その幸運は翔子だけではなく、実は親の私に差し込んだ光明でもあった。
何故ならば、翔子はこの世での名誉や、富や、人気などは全く分からないから。翔子は最下位を彷徨(さまよ)っていた時代も、書で栄光を得た時代も、ウエイトレスになった今も、何も変わっていない。相変わらずあの微笑と、他者を思いやる喜びとに満ちて輝いている。
ダウン症ということで翔子自身が悲しんだことは一度もなかった。苦しかったのは親の私。そして今、翔子の幸せをこの上なく嬉しく思うのも私なのだ。
私の若い頃から膨大な時間を費した「書」を我が娘に教え、その「書」で母娘は素晴らしい仕事が沢山できた。
翔子は、高校卒業時に不運な事があって就職ができなくなった。父親も亡くして行く末知れない翔子の将来への不安から、私は途方にもくれた。
苦境を乗り越えるにも「書」しか手立てがない私は、「翔子の書の個展」を開催しようと思い立った。私の亡き後、身寄りのない娘の身の証の為にも「生涯に一度だけ、立派な書展をしてあげよう」と、切羽詰まった想いで二十歳の個展を開いた。
この一度限りと思った個展から幸運が舞い込み始め、私から要望した仕事は一切ないのに、いつも何処からともなく沢山の仕事がきた。社会性に乏しい無力な私と、知的障害の無欲な翔子の二人に、目をみはる様な輝かしい仕事の依頼が沢山きた。
何の指針もなく、くる仕事を誠実にこなすだけで、強烈な努力や我慢をしたことはなかった。多くの人が喜んでくれるのが、実に嬉しいことだったのだ。
目標も立てず、苦しみや努力もなく、ただ与えられたことをやすやすとこなし、いつも大成功を収めてきた。まるでヨガの「三昧」に到達した人の様だと、我ながら驚いている。
私たちは特別に修行したのではないけれど、長い間、孤独で哀しい日々に獲得した私の深い諦念(ていねん)と、世俗に欲望のない翔子の無心が、「三昧」の世界に導いてくれたのかもしれない。
金澤泰子 ● かなざわ・やすこ
書家。明治大学卒業。書家の柳田泰雲・泰山に師事し、東京・大田区に「久が原書道教室」を開設。ダウン症の書家・金澤翔子を、世界を舞台に活躍する書家へと導いた母として、書の師匠として、メディア出演や本の執筆、講演会などで幅広く活躍。日本福祉大学客員教授。
金澤翔子 ● かなざわ・しょうこ
東京都出身。書家。5歳から母に師事し、書を始める。伊勢神宮など国内の名だたる寺社や有名美術館の他、世界各地でも個展や公演を開催。NHK大河ドラマ「平清盛」の題字や国連本部でのスピーチなど活動は多岐にわたる。文部科学省スペシャルサポート大使、紺綬褒章受章。昨年12月、大田区久が原に念願の喫茶店をオープンした。 今年は書家デビュー20周年の記念の年となる。
文/金澤泰子 書/金澤翔子
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※この記事は「ゆうゆう」2025年11月号(主婦の友社)の内容をWEB掲載のために再編集しています。
