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顔面骨折に子宮筋腫。度重なる病の後、45歳で大学入学【庄野真代さんのターニングポイント#2】夢の実現は何歳からでも遅くない

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恩田貴子

顔面骨折に子宮筋腫。度重なる病の後、45歳で大学入学【庄野真代さんのターニングポイント#2】夢の実現は何歳からでも遅くない

2000年、法政大学のキャンパスにて

「飛んでイスタンブール」「モンテカルロで乾杯」などのヒット曲で知られる歌手の庄野真代さん。70代の現在も、仕事やボランティアなど、精力的に活動を続けています。そんな庄野さんの人生のターニングポイントとは? 3回にわたってお届けします(2回目)。

▼前回記事はこちら▼

>>人気絶頂期に歌手活動を休止して世界一周旅行に【庄野真代さんのターニングポイント#1】人生を変えたタイでの出来事とは?

プロフィール
庄野真代さん 歌手

しょうの・まよ●1954年大阪府生まれ。
76年に歌手としてデビューし、78年には「飛んでイスタンブール」「モンテカルロで乾杯」などのヒット作で広く知られる存在となる。
2000年に音楽活動のかたわら法政大学人間環境学部に入学。
英国留学を経て、06年に早稲田大学大学院アジア太平洋研究科を修了。
同年にNPO法人「国境なき楽団」(現・市民活動団体「国境なき楽団PLUS」)を設立し、地域での文化支援や社会活動にも注力している。
現在は「こども食堂 しもきたキッチン」を主宰し、子どもや地域に寄り添う場づくりにも取り組んでいる。

夢の回収は何歳からでも遅くない

「人生、何が起こるかなんて、本当に誰にもわからないものですよね」

庄野真代さんの人生には、いくつかの大きな「アクシデント」があった。1999年、40代半ばで事故による顔面骨折と子宮筋腫で入院。そして2021年には悪性リンパ腫が見つかり、ステージ4の診断を受けた。度重なる病。普通なら運命を呪いたくなるような状況だが、庄野さんの捉え方は違っていた。

「もちろん、最初は落ち込みましたよ。『なんで私が?』って。だけど、『へぇ、そうなんだ』と、どこか他人事のように俯瞰している自分もいたんです。私、自分のことを、庄野真代という人間を動かす“プロデューサー”だと思っているんです。タレントである私の体にトラブルが起きたとき、プロデューサーが一緒になってオロオロしていたらダメでしょう? ドクターやナースは、言うなれば私をサポートしてくださるスタッフさん。『どう治療するのがベストか』『これからどう生きるか』を決めるのは、最終責任者であるプロデューサー、つまり私自身の役目です。どん底まで落ち込まず、『じゃあ、ここからどうしていく?』と前を向けたのは、そうやって自分をプロデュースする視点をもっていたからかもしれませんね」

自分を客観視する“プロデューサー”という視点。それは、困難な状況でも自分を見失わないための知恵なのかもしれない。

この強靭な精神性の原点とも言えるのが、冒頭で述べた40代半ばでの入院体験だ。「命には限りがある」という当たり前の事実を痛感した病室での時間は、その後の人生を大きく変える転機となった。

庄野真代

庄野さんが女将を務める下北沢「コムカフェ音倉」で、2025年11月に行われたイベント「あの歌この歌 音倉青春グラフィティー」

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