「笠井はいつまでがんで食っているのか」と言う人も…それでも僕が“がんの情報発信”を続ける理由【笠井信輔さんのターニングポイント#4】
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藤岡眞澄
アナウンサーとして第一線を走り続けてきた笠井信輔さん。テレビ人生の中には、仕事や家族、そして病気との向き合い方など、いくつもの転機があります。何を感じて、どう行動してきたのか。人生を前に進めるヒントを伺いました。第4回は、今、そしてこれからのこと、86歳の母のこと。
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>>フジテレビから独立直後にがんが発覚。その時、黒柳徹子さんからかけられた言葉とは?【笠井信輔さんのターニングポイント#3】妻から「あれだけ大変な経験をして、また元の笠井信輔に戻るつもりですか」と
——抗がん剤治療が順調に進み、入院から4カ月後の4月30日に退院。6月5日には悪性リンパ腫が完全寛解した、と診断されました。前向きに治療に取り組んだ甲斐がありましたね。
薬の効きが非常によかったんです。先生や看護師さんなど医療スタッフのみなさんの支えがあって、ここまで戻れました。
8月には約8カ月ぶりにフジテレビに行って、軽部(真一)さんと『男おばさん‼』(CS放送/3月末終了)の収録をすることもできた。25年以上ユニットを組んで映画の話をしてきた軽部さんとのトークは、やはり楽しかったですね。改めて、生身の人間と話すのは何より楽しいと実感しました。
——フリーアナウンサーとしての日常が戻ってきた、ということですね。
ただし、僕は局アナ時代から「働きすぎ」「無理しすぎ」って周囲に言われるくらい、仕事にブレーキがかけられない。泳いでいないと死んじゃうマグロみたいな性格なんです。
だから、来る仕事はできるだけ断らないし、仕事が終わったら家に帰るのではなく、映画や演劇を見る予定を入れてしまう。
復帰して仕事が増えると、妻からは「あれだけの大変な経験をして、また元の笠井信輔に戻るつもりですか」と釘を刺されました。
——それなのに、昨年の9月には、帯状疱疹で2週間の入院をしたことをブログで公表しましたね。
帯状疱疹の知識が少なくて、甘く考えていました。右目のまぶたが開かなくなったり、味覚障害が起きるほど重症化してから、妻に一刻も早くと促されて大学病院に行ったら、即入院でした。
実は、体調不良を妻に言い出せずにいたんです。妻という羅針盤を見なかったことがこうした結果を生んだということで、私としてはまた妻に頭が上がらない状況になってしまったわけです。
病気は家族で共有することが大切。心配かけまいと自分で抱えていると、さらに悪化して、かえって家族に迷惑をかけることを身をもって学びました。
——ブログには帯状疱疹ばかりでなく、がんの予後も心配するコメントもたくさん寄せられていました。SNSはもちろん、YouTube、講演会などでも、がんの情報公開や啓発活動に積極的ですね。
これまでも有名人がSNSなどでがんの告白をするケースはありました。でも、元気になるといつの間にか、がんのことに触れなくなる。それは仕事に差し障ることもあるでしょうし、元気になったことに批判やディスりが増えてくるのがSNSなんです。
でも、ぼくは報道の世界で生きているから、この経験をなかったことにして生きていくというのは違うな、と思っています。
先輩アナウンサーの中には「笠井はいつまでがんで食っているのか」と言う人もいますけれど、僕にとってはがんの情報発信はライフワークなので、止める選択肢はない。続けるしかないんです。
フリーアナウンサーになってからの僕にとって、がんは天から新たに与えられた仕事の柱。“がんの笠井”を背負っていこうと心に決めています。
——きっとそれが、ブログのタイトル「人生プラマイゼロがちょうどいい」という言葉に込められた思いそのものなんでしょうね。
僕は40代くらいまで、なんでこんなに幸せな人生なんだろうと思っていたんです。調子がよすぎた。
でも、そんな幸せな人生ばかり続くはずがないと思っていたら、やっぱりがんになった。これって、プラマイゼロなんですよ。
人生はアップダウンしながら進んでいく。調子がいいと、どこかに落とし穴がある。でも、その穴に落ちたとき、挫けちゃいけないんだと、子どもたちに話すことがあるんだけれど、どれだけ通じているかはまだわかりません。
