琉球の自然と歴史が育んだ焼き物の里。唯一無二の器に出合いに、沖縄「やちむんの里」を歩く
ぼってりとした厚みと大らかな絵付け、素朴で温かみのある沖縄の焼き物、やちむん。
自然環境に恵まれた読谷村には、大きな登り窯を中心に19の工房が集まる「やちむんの里」があります。
この地で作陶する現代の名工の一人、松田米司さんの工房を訪ねました。
地道な手作業から 生まれる素朴な温もり
やちむんの歴史は古く、琉球王国の時代から中国や東南アジア諸国との交易が盛んだった沖縄では、諸外国の陶磁器が豊富に持ち込まれたことで焼き物の技術が発展したという。
登り窯とは、階段状に炉を連ねる窯のことで、手作業での大量生産を可能にするものだ。伝統的な手作業にこだわりをもつ陶工たちが、登り窯を開ける場所として選んだのが読谷村だった。傾斜地に加え、粘土、湧き水、薪など資源の豊富な環境が陶器を作るのに適していたからだ。後の人間国宝、故・金城次郎氏をはじめ、多くの陶工が次々に移住。現在は読谷村に70の工房がある。なかでも、19の工房と、その直売店やギャラリーが連なる一帯は「やちむんの里」と呼ばれ、全国から焼き物ファンが足を運ぶ人気のスポットだ。
やちむんの里の入り口から坂を上っていくと、赤瓦の「読谷山焼共同登り窯」の雄大な姿が目に入る。その北には、4人の陶工が共同で築いた「北窯」が。北窯の松田米司さんの工房を訪ね、登り窯を見学させていただいた。
北窯は、連房式という代表的な形態の登り窯で、13個の焼成室(房)があり、下の焚口から順に薪をくべて炎が上に登ることで熱が効率的に行き渡る。焼成は一つの房につき約4時間、三日三晩続く。1300度まで上がる窯の中に温度計はなく、温度管理や、ちょうどよい頃合いを見て焚き終える判断は、職人の経験とカンがものをいう。加えて、ここでは、土づくりから自分たちで行っているというから驚く。
気が遠くなるような手作業によって、素朴で温かみのある唯一無二の器が生み出されるのだ。
「この 器 、沖縄らしいね」 そう 言われるのが一番うれしい
工房をのぞくと、窯出しした陶器が所狭しと並ぶ。一度の窯焚きで数千点の陶器が焼き上がる。土づくりから窯出しまで、工程の多くは共同作業だ。ここには女性2人を含む5人のお弟子さんがいて、松田米司さんは「親方」と呼ばれ慕われている。
読谷村で生まれ育ち、実家は農家だったという米司さんが、陶芸の道を志したのは、18歳のとき。
「多感な時期にちょうど沖縄が日本に返還されて。アメリカの文化で育った自分は日本人か、沖縄人か?どう生きればいいのか?と頭の中が混沌としていました。その頃高校の先生に、沖縄には独自の文化があると教えられ、『沖縄人らしく歩みなさい』と言われて、その言葉が心に響いたんですね。それで沖縄の文化に興味をもち、たどり着いたのが焼き物だったのです。沖縄の焼き物を作って沖縄の文化を広げ、それで生計を立てていけたらいいな、と」
沖縄を代表する陶芸家、大嶺實清氏に弟子入りし、腕を磨いた。
「自分たちで土をこしらえ、薪を切って……窯も自分たちで造る、というシステムは、大嶺先生から学び、影響を受けました。現代の主流であるガスや電気窯を否定するつもりはありませんが、一連の作業を行うのが焼き物の本流であり、文化をつくるのだと思うんです。焼き物ってね、化学なんですよ。順序立てて一つずつの工程をきちんと行えば、必ず作品は出来上がる。なまけて手を抜くと、何かが欠落した作品になる。焼き物はうそつかない(笑)。
僕が作陶で大切にしているのは、自分個人の表現よりも、伝統に則った沖縄らしさ。そして誰もが日常で使える器であるということ。『このお碗、沖縄らしいね』と言われ、使い続けてもらうのが一番うれしい」
とはいえ、やはり作品に個性は表れるものだ。弟子の一人でもある、長男の健悟さんは、こう話す。
「父の作品は、独自の特徴的な絵柄や形があるのではなく、雰囲気……柔らかい、やさしい感じがすると、皆さんが評価してくれます」
自分が楽しく仕事をすれば後継者は育つ
後継者の育成にも努めてきた米司さんだが、息子に焼き物を「やりなさい」と押しつけることはなかった。
「昔、先輩に言われたんです、あなたが楽しそうに仕事をしていたら、子どもも楽しそうと思う、苦しそうな顔をしていたら、誰もその仕事につきたいとは思わない、と」
好きな仕事に打ち込む父の背中を見て息子は育ったのだろう。
「子どもの頃から焼き物に興味があったわけではないです。ただ、父の工房にはよく遊びに行っていて、薪で剣を作ったり、粘土をこねたり、ものを作ることは好きでしたね」
息子といえども特別扱いはない、他のお弟子さんと平等だった。
父に一対一で教わったのは轆轤(ろくろ)ぐらい。あとの作業は先輩に教わりました。それがよかったんだと思う。仲間がいるのは楽しいし、常に父と一対一だったら続かなかったかも」
実は6年前、米司さんはくも膜下出血で倒れた。登り窯の火入れから窯焚き、袋の焚き終わりの判断まで、すべて弟子たちが担うことになる。健悟さんは、こう振り返る。
「親方はいない、自分たちで判断してやるしかないので必死でした。炎を見る、焼け具合をチェックするといった作業も真剣。火を止めるのが早かったとか失敗もして、判断力などが身についたと思う。焼き物の世界は修業10年といわれますが、年数だけじゃない。作業に真剣に意識を向けることで窯のこと、土や釉薬のことがわかってくるんです」
今はすっかり回復し、頼もしそうに健悟さんを見つめる米司さん。
「当時、医者に言われました。焼き物を作ること自体が一番のリハビリです。仕事しなさいよ、と(笑)」
この仕事に終わりはないという。
「毎日体調が違うでしょ? 天気も違う。同じ一日ってない。焼き物もそうなんです。今日作る皿と、明日作る皿は違うんです。だから飽きない」
注文枚数のみ、3月の窯入れで松田米司さんの「北窯」で焼き上げる。一点一点手作りのため柄は微妙に異なる。2023年1月31日まで注文可能。
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取材/村瀬素子 撮影/中村彰男
※この記事は「ゆうゆう」2022年7月号(主婦の友社)の内容をWEB掲載のため再編集しています。